【八重山日報連載記事】■祖国復帰の先導者大濱信泉 〜佐藤栄作総理大臣の沖縄返還交渉のブレイン〜(第1回)

シェアする

沖縄県の祖国復帰を語る時、誰もが屋良朝苗先生を思い浮かべると思います。屋良氏の復帰への情熱と異民族支配下でも祖国日本と同じ教育を行うという信念なくして、沖縄県祖国復帰は実現することは不可能だったでしょう。しかし、沖縄県祖国復帰を語る時、決して忘れてはならない人物がもう一人おられます。それは、石垣市出身で、早稲田大学総長を務めた大濱信泉(おおはま・のぶもと)氏です。

大濱は明治24年、石垣市登野城で大濱信烈の長男として生まれ、八重山高等小学校の尋常科4年、高等科4年を終えたのち、沖縄県師範学校に入学しましたが、18歳の春、女子学生に出したラブレターが原因で退学処分を受けてしまい、先生のアドバイスに従い、上京して再起を図ることにしました。ところが、上京してやっとで郁文館中学に入学できたところに、徴兵令により小倉の歩兵第47連帯に入隊することになり、2年間の軍隊生活を送ることになったのです。大正2年の暮に満期除隊したあとは、翌年4月に早稲田大学高等予科の政治経済学部に入学し、途中から弁護士を目指し、法学部へ転部、大正7年首席で卒業し、三井物産に入社、翌年弁護士試験に合格。大正10年に弁護士事務所を開業し、翌年には早稲田大学の非常勤講師に就任しました。結局、この道が自分自身に適合していると判断し、大正14年に弁護士は廃業し大学講師の仕事に専念することにしました。

19歳で沖縄師範学校を退学して以来、波乱万丈の人生を歩んだ大濱ですが、33歳で早稲田大学助教授、36歳で教授に就任し、終戦直後の昭和21年には、早稲田大学の理事に就任し教育者として出世していきます。

その大濱が、昭和40年8月に、故郷の沖縄に現役の総理大臣初の沖縄訪問に、特別顧問として同行したのです。これ以降、政府の沖縄返還交渉は急加速していきますが、その裏では常に大濱の動きがあったのです。

■ダレス全権への提言

昭和26年9月、対日平和条約が調印され、翌27年4月に発効しましたが、沖縄県民にとって大きなショックを与えたのは、第3条の規定でした。それは、沖縄県を米国の信託統治下に置くことを前提として、それが決定するまで、米国が行政、立法、司法の全権を握るというものです。つまり、祖国日本から分断し米軍統治下に置くということです。米軍の戦時占領が終われば、当然祖国日本の行政の下に帰ることができると心待ちにしていた沖縄県民の期待は残念ながら裏切られてしまったのです。

この条文案を一読した大濱も第3条の規定にショックを受けました。大濱が心を痛めたのは、「もし、沖縄が信託統治下におかれると、特殊な地位を与えられ日本国籍を失ってしまう。また、信託統治は避けられたとしても、日本国憲法適用外の地域として県民はあらゆる面において米国の統治下に服しなければならない。」という、異民族支配への不安です。

当時、早稲田大学法学部長の要職にあった大濱は、沖縄の将来が気になり、国会で承認を経て発行する前に、沖縄出身の教育者の立場からダレス全権へ請願の形式で手紙を出したのです。

「沖縄は日本国の一部として歴史を共にし、言語や文化も同型同質であって、教育の水準と普及率においても何ら差などは無い。それを本土から分離し、本来自治能力の無い未開発地域を対象として構想された信託統治下におこうとすることは不合理であり、独立国家の威信と国民感情の上からとうてい耐え難い屈辱というほかない。このような措置は是非避けてほしい。」「また、米国施政権下におくことも民族独立の原則から反し、歴史に逆行するうらみがあるばかりでなく、多くの問題を内包し避けることが望ましい。」

大濱は、要請の大前提として、沖縄県民は日本人であること、そして、それを分断統治することは、国際的立場から見ても道義に反していることを訴えたのでした。

■教育権返還の提言

大濱は、続いて、教育の観点からダレス全権へ訴えます。「元来教育は、次の世代を担うべき人材の育成を目的とするものであり、したがって将来の歴史に対する永い見通しの下に行われなければならない。」「沖縄が当面米軍施政権下に置かれるとしても、それは暫定的な措置であって、沖縄を永久に領有するものとは信じたくない。いずれは日本に返還することを予定しているものと期待する。」 「そうだとすると、沖縄の教育がアメリカの方針と制度によって行われたのでは、返還されたときには木に竹をついだようなものになり、混乱を招く。」「このような観点から以下4点の配慮が必要である。」

(1)日本と同一の制度、理念、同一の教科書、教材で教育を行うこと。(2)教員の免状も日本と同等のものにすること。人事交流の混乱を回避するため、本土で発行した免許状も沖縄で発行した免許状も相互い通用するものでなければならない。(3)教員の再教育も日本本土の指導者があたること。現地において米国指導者がこれにあたることは適当ではない。(4)日本は戦後政策として各県に一個の総合大学を設置する方針を決めた。沖縄にも日本の総合大学の設置を認めること。

この大濱はこの手紙をダレス全権におくると同時に、コピーを上院議員、下院議員の外交委員長にあてて発送しました。両外交委員長からは、受領したとの返書が届き、ダレス全権からは2ページにわたる返信が届きました。そこには、貴重な示唆に感謝するとあり、注目するポイントが2点ありました。一つは、沖縄を米国の施政権においた場合においてもサンフランシスコ講和会議で言明した通り日本が引き続き、残存主権を保有すること。二つ目は、沖縄住民の合衆国政府との関係におけるシビルステータスについては、国務省で慎重に検討中とのことでした。大濱は米国は沖縄を信託統治下におく方針ではないと読み取りホットしたのです。(続く)

<第2回はこちら