オール沖縄県政分析②
<オール沖縄県政は、なぜ「自分に甘く人に厳しい」ダブルスタンダードなのか>
国に対しては「適正手続きの無視」「地方自治の蹂躙」と厳しく法治主義を迫る一方で、自らの足元では最高裁判決の無視、ワシントン事務所の脱法的運営、条例手続きの潜脱、そして抗議活動に伴う重大事故の責任回避を平然と行う――。
オール沖縄県政に見られる著しい「自分に甘く、他人に厳しい」二重基準は、なぜ生まれるのでしょうか。その背景には、単なる失言や怠慢にとどまらない3つの構造的・心理的要因があります。
1. 法を攻撃の武器とする「法道具主義(ローフェア)」
県政にとって法や手続きは、客観的に自らを律する規範ではなく、敵対勢力を攻撃するための「道具」へと変質しています。国や対立勢力に対しては法律や条例を最大限に振りかざして厳罰主義で迫る一方、自らの政治目的を遂行する場面では、行政手続条例や地方自治法の規定を平気で潜脱します。規範の普遍性を信じていないため、自分と相手とで適用基準が正反対になっても痛痒を感じません。
2. 「排除不能な共闘関係」という権力の足かせ
オール沖縄は、革新政党や労働組合、市民団体、さらには治安当局が認定する過激派セクトまでをも内包する極めて危うい連合体です。警察本部長が過激派の混在を議会で明言しても知事が「知らない」と否認し、抗議船の転覆死亡事故でも運航側の責任追及を阻むのは、身内の非を認めれば自らの権力基盤が瓦解するからです。政権維持のために「身内への甘さ」を構造的に強制されているのです。
3. 「絶対的正義」がもたらす道徳的自己免責
「基地に抗う自分たちは絶対的正義であり、歴史的被害者である」というナラティブに埋没すると、自浄作用が完全に麻痺します。数々の法令違反や不都合な事実を突きつけられても、「平和のための些細なミス」「知らなかった」と責任を外部化します。「我々は崇高な目的のために戦っているのだから許される」という特権意識が、身内への無制限の寛容と他人への過酷な断罪を正当化しています。
—




コメント