オール沖縄県政分析①
<「被害者ナラティブ」が法治を歪め、無意識の「加害者」を生み出す構造>
薩摩侵攻、琉球処分、沖縄戦、そして戦後の基地問題――これらの歴史的事実に対し、現代の沖縄では「自分たちは常に一方的に抑圧されてきた絶対的な被害者である」という、**特定の政治的意図を持った後付けのストーリー(被害者ナラティブ)**が、教育やメディアを通じて広く流布されています。
自分が直接経験したわけでもない過去の出来事に対し、この「作り上げられた被害者意識」を無批判に内面化させられていることこそが、最大の問題です。
このナラティブが行政運営や政治運動の前提とされるとき、自らの責任を問わず他者(国や米軍)のみを一方的に糾弾する深刻な二重基準(ダブルスタンダード)と、法を逸脱した運動が引き起こす「無自覚な加害」が生じる構造的な危うさがあります。
1. 「正義の被害者」による道徳的自己免責
「自分たちは歴史的弱者であり、正義の側にいる」という確信が強まるほど、「崇高な目的のためなら、多少のルール違反や手続きの省略は許される」という自己免責(モラル・ライセンシング)が働きます。確定した司法判断に従わなかったり、法規を逸脱したりしても、「抑圧に対する正当な抵抗だ」と脳内で変換され、法を守らないことへの痛痒が失われます。
2. 法の道具化(ローフェア)と二重基準
国に対しては「適正手続きの遵守」「地方自治の尊重」を激しく迫り、法を攻撃の道具として用いる一方で、自らの統治権力(批判者への不利益な処分、証拠文書の不開示、議会への報告義務違反など)においては、自ら定めた手続条例や法規範を平然と潜脱します。「味方のルール違反は許されるが、敵の手続き不備は糾弾する」という露骨な使い分けが正当化されてしまいます。
![]() |
3. 加害者性の否認と責任転嫁
自らを「永遠の被害者」と位置づけると、自らの権力行使による個人の権利侵害や、運動現場での人的被害・事故といった「自らが引き起こした加害」を直視できなくなります。「被害者が加害をするはずがない」「すべては基地を押し付ける外部の悪のせいだ」と処理され、自浄作用が完全に停止します。




コメント