【告知】12月18日「学校マスコミが絶対教えない首里城の歴史」〜首里城を救った男たちのドラマ〜

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学校マスコミが絶対教えない首里城の歴史
〜首里城を救った男たちのドラマ〜

12月18日に以下の要領で、首里城をテーマに取り上げてセミナーを開催いたします。

是非、多くの方にご参加いただきたいと願っております。

学校マスコミが絶対教えない首里城の歴史
〜首里城を救った男たちのドラマ〜

◎場所:IKEBIZ としま産業振興プラザ
3F 男女平等推進センター 研修室2
http://www.toshima-plaza.jp
〒171-0021 東京都豊島区西池袋2-37-4

◎日時:
昼の部:令和元年12月18日(水) 14:00〜
https://www.facebook.com/events/519326372008031/

夜の部:令和元年12月18日(水) 18:30〜
https://www.facebook.com/events/489561908577575/

◎会場分担金&資料代=1,500円

◎何故首里城をテーマとして取り上げたのか?

何故、首里城をテーマとして取り上げたかと申しますと、首里城が第二の辺野古になる危険性が高まってきたからです。

詳細は、下のオピニオンサイトにて解説いたしましたので、リンク先ご一読いただければ幸甚です。

https://ironna.jp/article/13856

首里城闘争を扇動する琉球新報の連載

◎学校マスコミが教えない首里城の歴史

1.首里城のプロフィール

極めて当然なことではありますが、首里城の復元は首里城の正しい歴史を知らずして、不可能です。

首里城は沖縄のアイデンティティーと言われますが、当時の琉球国単独の資金と技術で建設されたものなのでしょうか?

また、復元といっても首里城は火災による焼失と再建を繰り返しており、いつの首里城をモデルに復元するのでしょうか?

14世紀 首里城創建(年代は不明。尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、首里城を王家の居城として用いるようになった。)
1453年 首里城焼失(王位継承の内乱)
1660年 首里城焼失
1672年 首里城再建
1709年 首里城焼失
1715年 首里城再建
1945年 首里城焼失(大東亜戦争)
1992年 国営首里城公園開園
2019年 首里城焼失

2.『球陽』〜薩摩無くして首里城無し〜

実は、首里城の復元は、沖縄戦で焼失した1715年に再建されものです。

その首里城についても資料は少ないのですが、貴重な記述が残されていました。

それは、球陽という琉球国の正史に記載されていました。

球陽:『球陽』(きゅうよう)は、1743年から1745年にかけて琉球王国の正史として編纂された歴史書である。

そこに、薩摩が首里城再建のための材木を支援したことが書かれています。

[附巻0096]【薩州太守、材木を寄賜して、以て宮殿の修造を補ふ。】先年、王城回禄し、将に宮殿を修造せんとす。而して材木欠乏す。今、疏文を具し、薩州に求買す。是れに由りて、薩州太守吉貴公、材木壱万九千五百二十五本を寄賜して、以て禁城宮殿の修造を補ふ。

薩州とは薩摩藩のこと、太守とは藩主のことです。首里城を再建しようとしたが木材が欠乏しており、薩摩藩主の島津吉貴が材木19525本を寄賜し、首里城を修造したと書かれています。

要するに、今日本政府が復元再建をしようとしている首里城は、薩摩に材木支援によって再建された首里城なのです。

当時の薩摩の琉球支援はいこれだけではありません。

首里城再建の前にも記述が残っています。

[附巻0094]【薩州の太守、白銀を発賜して饑ゑたる民人を済ふ。】旧年の夏秋、颱颶七次あり。十月に至りて、颱風最も暴し、国、大いに饑饉を致す。王、即ち倉廩を発し、周く人民を済ふ。然れども、春に入り、饑甚だしく、民已に餓殍す。遂に其の事、薩州に聞ゆ。是れに由りて、薩州太守吉貴公、白銀二万両を寄賜して、以て本国の餓を賑済せしむ。

颱颶とは台風のことです。

この年、1709年はなんと台風が琉球を7度も襲ったのです。地上の作物はすべて吹き飛ばされたため、飢饉に陥っていました。琉球王は倉庫の米を配布したがそれでも全くたりないため、薩摩藩主、島津吉貴は白銀2万両を送って、琉球の飢饉を救ったのです。

このことからわかることは、首里城は薩摩無くして存在できなかったということです。

琉球が飢饉などの危機に訪れた時、救いの手を差し伸べたのは、明国でも清国でもなく薩摩だでした。

首里城で冊封の儀式が行われたため、チャイナとの結びつきばかり強調されるのですが、真実は薩摩の支援があってこそ建設が可能だったのです。

首里城の位置付けは、決してチャイナの属国ではなく、明治維新後急速に西洋化を進め、西洋人をおもてなすために建設された鹿鳴館のような外交史のモニュメントと位置づけるべきです。

それも、琉球単独の外交史ではなく、幕藩体制の琉球口貿易のモニュメントととしてです。

3.首里城の取り壊しを阻止した二人の男

首里城を救った男たちは、18日のセミナーの本論ですので、触りだけにしておきます。

1879年、首里城の城主、尚泰王は他藩の藩主と同じように、首里城を明け渡し東京に写りました。

首里城は、日本軍の駐屯地として利用された時期もありましたが、その後は主のいない城として寂れていきました。

このままでは危険とされ大正13年には取り壊すことがきまっていました。

その、取り壊しを阻止したのが、下の二人です。

二人の尽力には、奇跡的なドラマがありました。

沖縄女子師範学校の美術教師として赴任していた鎌倉は、東京にもどってました。

大正13年3月28日の午前、小石川にある沖縄県出身者の寮、明正塾を訪れました。

舎監の船越義珍に空手の話を聞くためです。

そこで、沖縄から送られてきた新聞に「首里城取り壊し」の見出しをみつけました。

鎌倉は脱兎のごとく、明正塾を飛び出し、必死な形相で走り出しました。

首里城取り壊し式があと10日後にせまっているからです。

目的地は、本郷にある東京帝国大学の伊東忠太の研究室。

伊東に合うと、息切らせながら、新聞を見せて首里城が危機にあることを訴えたのです。

伊東は日本建築学史の祖で神社建築の第一人者であり、古社寺保存の権威で名を轟かせていました。

その伊東が、その日の午後、大海原重義神社局長に面会し、取り壊し中止を要請。

大海原も伊東の権威には逆らえません。

すぐに沖縄県庁に

「首里城並びにその建造物は史跡名勝天然記念物に該当するので取り壊しならぬ」

と取り壊し中止命令を打電したのです。

実際には、取り壊し式を待たず、前倒しで作業が開始されており、3月25日には既に瓦が外され始めていた。

このように、しかし、鎌倉芳太郎と伊東忠太の情熱と行動に支えられて、首里城は奇跡的にその命を守られたのです。

4.昭和の大修理の首里城を救った二人の男

大正14年4月24日、首里城は特別保護建造物に指定されました。

その後修繕計画が立案され、昭和3年2月に着手。昭和の大修理が始まりました。

しかし、昭和5年頃で全工程の2割のみの進捗で工事資金が底をつき、手詰まり状態になりました。

その年の7月17日にの観測史上三位(当時)の台風が沖縄を襲ったのです。

首里城も大きな損害を受け工事も中止状態に陥りました。

文部省宗教局の阪谷良之進と文部省建築技師の柳田菊蔵だ。

阪谷は柳田を沖縄に派遣、8月3日に沖縄に到着、柳田は被害状況を調査し台風で屋根が剥がれ、柱はシロアリの餌食となった悲惨な首里城の状況を手紙で報告しました。

同時にその対策として、素屋根(すやね)設置の必要性を訴えた。素屋根とは、建物をすっぽり覆う仮設物で、風雨から建物を守ることができる。そのメリットは台風で再び被害を受けることを避けることができるのみならず、木材を風雨に晒すことが無いため材料の劣化、損失を防ぐことができる。

また、最大のメリットは、工事が天候に左右されないため、計画通りに工事をすすめることが可能になることだ。

デメリットは、その高額な予算である。阪谷も翌年2月4日、自ら沖縄まで足を運び、滞在を延長してまで細かく視察した。

<素屋根を使った首里城の大修理>

その結果、柳田が必要だという素屋根を用いた工法なくしては、この工事は竣工できないと確信したのです。

2月21日に那覇港を出発し、東京に到着すると、いっときも休むこと無く工事費を9万8000円に増額するために粉骨砕身の努力を開始しました。

それからわずか数日後の3月4日、柳田に電報を打ちました。

その電文には「工費は九八九〇〇円以内に収ること」とあり、但し書きに「貴族院議員控室にて決定す」とありました。

この予算は当時の首里市にほぼ匹敵するものであり、当時の文部省が行った修理工事を超えるものです。

台風が首里城を襲う前年の3月28日、国宝保存法が制定されました。

この法律により文部省は、この法律により修理をしなければならない、文化財が山積みされていました。

その中には、伊東忠太により日本最古の木造建築だと確認された法隆寺や早急な修理が必要であった姫路城がありました。

文部省は、これらの文化財より首里城の大修理を優先して予算をつけたのです。

法隆寺の修理が始まったのは昭和9年、姫路城は、昭和9(1934)年6月、西の丸の櫓の一部が石垣もろとも大雨で崩壊し、崩壊した西ノ丸の解体修理を国の直営工事として開始され、首里城よりあとの着手です。

首里城の大修理は各部材を実測し記録を取り、解体し、修復し組み立てるという気の遠くなる作業の繰り返しです。

事故を起こさないため、腐朽した部材の解体順序にも苦心したはずです。

しかし、素屋根のおかげで、工事を再開してからわずか1年9ヶ月という突貫工事で、昭和8年9月23日、幾多の困難を乗り越えながらも、一人のけが人を出すこと無く竣工したのです。

首里城復元を語る時悪れてはならない先人の恩

首里城の復元を語る時、前述した、伊東忠太、鎌倉芳太郎、阪谷良之進、柳田菊蔵の4名の功績、そして江戸時代の薩摩の支援を伝えることを決して忘れてはならないと思います。

彼らに対する感謝を忘れては、正しい復元は不可能ではないでしょうか。

ましてや、その恩を忘れて、沖縄という小さな島だけで、首里城の建設や復元を成し遂げたと勘違いし、所有権の移管を主張するようでは、沖縄県は恩知らずの県民性を育てる結果となり、将来に修復不可能な大きな禍根を残してしまうでしょう。

首里城に埋め込まれた伝統芸術は沖縄の誇りであることは間違いないが、歴史的に国宝であり、日本国全体で守り伝えていくものなのだと思うものです。

一般社団法人日本沖縄政策研究フォーラム
理事長 仲村覚


学校マスコミが絶対教えない首里城の歴史
〜首里城を救った男たちのドラマ〜

◎場所:IKEBIZ としま産業振興プラザ
3F 男女平等推進センター 研修室2
http://www.toshima-plaza.jp
〒171-0021 東京都豊島区西池袋2-37-4

◎日時:
昼の部:令和元年12月18日(水) 14:00〜
https://www.facebook.com/events/519326372008031/

夜の部:令和元年12月18日(水) 18:30〜
https://www.facebook.com/events/489561908577575/

◎会場分担金&資料代=1,500円