沖縄対策本部長■ 琉球処分とは琉球庶民の救済である

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■「琉球処分」とは非常に平和的な国家統一事業だった

歴史書では明治時代に琉球王国が廃止され沖縄県が設置された事を「琉球処分」と称しています。それはあたかも日本政府が琉球国の住民の意思を無視し武力で琉球王国を滅ぼしたかのような印象を与えています。しかし、「琉球処分」といっても実際には日本軍により殺害された人は一人もいません。沖縄県が設置された翌年の明治13年、日本への服従を嫌って清国へ救援を訴えに密航した親清派の人々がいます。清国に脱出した琉球人の事を「脱清人(だっしんにん)」と呼んでいます。幸地、国頭、二人の親方は脱清人を率いて福建省総督に面会し、首里城落城を訴え救援を求めました。総督は「日本兵は何万人か、琉球人の殉死は何百人いたのか」と問いました。その質問に対し幸地は答える言葉がありませんでした。何故なら日本兵はわずか450人、殉死者はおろか戦死、自決は一人もおらず無血の首里城明け渡しだったからです。それは戊辰戦争、西南の役で1万人以上の死者を出した明治維新と比べても非常に平和的な国家統一事業だったのです。

■朝命の遵奉の決断を下していた尚泰王

実は当時の琉球王、尚泰王は、進んだ思想の持ち主でした。彼の側近にも世界情勢をよく見えている役人が複数いました。例えば「自ら進んで版籍奉還する事が国益である」と首里王府に提案した待講の津波古政正や、「琉球が生き延びるには日本の一部になるしかない」と考えていた三司官の宜湾朝保などです。尚泰王は彼らから世界情勢を学んでいたのです。そのため、日本政府から清国との朝貢・冊封関係を断つよう勅命がくだされ議論が紛糾する中、「朝命を遵奉すべし」と決断し命令を下しています。しかし、頑固党と呼ばれる親清派閥の勢力から圧力を受け王命を撤回させてしまいます。彼らは琉球国民のためではなく、既得権益のために王国を存続させたかったのです。残念な事に尚泰王の優柔不断さの結果、日本政府は強行的な手法を取らざるを得なくなってしまったのです。

■「琉球処分」とは親清派琉球士族の処分であり琉球庶民の救済である

沖縄のマスコミでは日本政府が米軍基地を沖縄県に押し付けることを第二の琉球処分とか第三の琉球処分などということがあります。この表現は事実と全く異なっています。琉球処分の「処分」とは既得権益を求めて日本への服従に対して抵抗運動を執拗に続けていた親清派の士族グループに対してであり、一般の琉球国の住民に対してはむしろ救済だったといえます。松田道之は、沖縄県を設置する任務で沖縄に派遣されました。彼は密偵を使って庶民の実情を把握して居ました。その密偵からの報告によると「士族の4割は内地の新政を望んでいるが、口にするのを恐れている。」「平民は琉球藩の過酷な政治を恨み日本の直轄を望んでいる。」ということでした。実際、琉球処分前の沖縄では、寺小屋もなく農民は字の読み書きも習うことができず、農奴のような生活をしていました。それが、沖縄県の設置以降は、農民も学校に通えるようになりました。これにより沖縄でも身分制が廃止され、努力しだいで誰でも出世できるようになったのです。

現在、首里城祭などでは華やかな王朝文化を再現していますが、琉球国の庶民全員がこのような華やかな文化を満喫していたわけではありません。首里城の華やかさは朝廷だけのも庶民には全く関係の無いことだったのです。逆に庶民はこの朝廷が冊封や朝貢で華やかな儀式を行うために大きな税負担を強いられていたのです。

(仲村覚)


<尚泰王(しょうたいおう)>ウィキペディアの解説

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%9A%E6%B3%B0%E7%8E%8B

1843年8月3日(道光23年7月8日) – 1901年8月19日)は、第二尚氏王統第19代にして最後の琉球国王(在位:1848年6月8日 – 1872年10月16日)、後に日本の華族として琉球藩王(在位:1872年10月16日 – 1879年4月4日)、侯爵。童名は思次良金。父は、第18代国王尚育王。

1848年6月8日(道光28年5月8日)にわずか4歳(数え年では6歳)にして即位した。

1853年(咸豊3年)にはペリーが琉球に来航し、翌1854年に琉米修好条約を締結した。さらに、1855年には琉仏修好条約、1859年には琉蘭修好条約を結んだ。

元来、琉球は日本と清(中国)に使を送り独自性を保っていたが、他府県の廃藩置県も済んだ翌年の1872年(同治11年、明治5年)に、日本は強引に尚泰を琉球藩藩王に冊封し、東京に藩邸を与えた。然うして1879年(光緒5年、明治12年)の琉球処分により琉球藩に沖縄県が設置されると、藩王の地位を剥奪され居城の首里城も追われ、琉球王国は消滅した。尚泰たちは琉球王家の屋敷の一つ中城御殿に移ったが、華族として明治政府より東京在住を命じられた。尚泰の次男尚寅、四男尚順は後に沖縄に帰ってきている。

のち華族令の発令に伴って尚泰は侯爵となった。1901年(明治34年)に59歳で没。墓所は沖縄県那覇市の琉球王家の陵墓・玉陵(たまうどぅん)。なお、尚家は現在も存続している。

「命どぅ宝」は尚泰王の言葉と言われることもあるが、本来は演劇中のセリフである。

<津波古政正(つはこせいせい)> 朝日日本歴史人物事典の解説

https://kotobank.jp/word/%E6%B4%A5%E6%B3%A2%E5%8F%A4%E6%94%BF%E6%AD%A3-1092535

生年: 尚【外6BB4】13.8.21 (1816.9.12)  没年: 尚泰30 (1877)

幕末琉球の政治家。首里の士族家の生まれ。中国名は東国興。北京の国子監に留学し,帰国後さまざまな職を歴任したのち尚泰王の国師(教授役)となる。理知的でバランス感覚を持つ政治家として知られる。明治政府による琉球処分(沖縄県設置)の動きをめぐって王国内部が紛糾した際も常に冷静な判断を王に意見具申したが,激動の渦中で死去したため,その資質は十分に生かされなかった。高弟に『琉球見聞録』の著者,喜舎場朝賢がいる。 (高良倉)

<三司官 宜湾朝保(ぎわんちょうほ)>1823~1876 JCCweb美術館より

http://art.jcc-okinawa.net/rekishi/giwanchobo/

宜湾朝保尚灝20年(1823年)3月5日 – 尚泰29年(1876年)8月6日)は、琉球王国末期の著名な政治家で歌人。当時の正式な呼称は宜湾親方朝保。

琉球藩を受け入れた 王国最後の政治家

十九世紀中葉、日本が明治維新を成し遂げた激動の時代。
若くして琉球政治の最高職・三司官に就任した宜湾朝保は維新を祝う使者として東京に派遣された。そこで新政府から琉球を日本の藩とし、国王・尚泰(しょうたい)を藩王とする詔勅が下され、使者一行は驚くが、宜湾は世界の大勢とと自国の立場を鑑みこれを受諾した。以降、琉球を日本に取り込むための施策、所謂(いわゆる)琉球処分が段階的に行われていった。
亡国の危機に瀕した琉球王府では議論が沸騰したが、宜湾はこの様子を「衆官の議、もっぱら己の門閥(もんばつ)を保つを先にする」と評し「ただ国家を安んずる」ために多難な琉球を新しい時代に導こうとした。しかし親清派の士族達からは「売国奴」と呼ばれ、激しい非難の集中砲火を受けたため病に伏し、やむなく三司官を辞した。彼が憂悶のうちに没したその三年後、強権的に琉球王国は廃され沖縄県となった。

「野にすだく 虫の声々かまびすし たが聞き分けて品定めせむ」  宜湾朝保

宜湾朝保は当代一の国際感覚を持った政治家であり、琉球最大の歌人とも称された文化人だったが、失脚後は不遇な晩年を送った。

<尚泰王(しょうたいおう)>

<宜湾朝保(ぎわんちょうほ)>

(参考文献)