民間沖縄対策本部■日本の領土、沖縄の返還要求を強く支持していた毛沢東(中国共産党新聞1964年1月27日)

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■中国が「沖縄返還反米闘争」の糸を引いていた証拠

私はこれまで何度も、「沖縄返還運動は安保闘争だった」「祖国復帰協議会は革新連合だった」と述べてきました。

そして、「沖縄祖国復帰運動の目的は、日米同盟を破棄し、米軍を沖縄・日本から撤去することだった」と述べてきました。さらに、それを支援、または裏でコントロールしていたのは中国に違いないと述べてきました。

しかし、自分としてはかなり確信はあるものの、証拠を示すことはかなり難しいものがありました。

今回、毛沢東自身が沖縄返還を強く支持した証拠になる文書を発見しましたので紹介致します。

その文書とは、1964年1月27日発行の中国共産党新聞です。タイトルは「中国共産党新聞:中国人民は固く日本人民の偉大なる愛国闘争を支持する」です。

ここで、いっている愛国運動とは2つあります。ひとつは、「沖縄返還運動」と「日米安全保障条約の破棄」です。つまり「愛国反米運動」を支持していたわけです。

冒頭の本文の一部、5行目までの日本語訳を記載致します。

「中国共産党新聞:中国人民は固く日本人民の偉大なる愛国闘争を支持する」

日本の人々が1月26日に開催した大反米デモは、偉大なる愛国運動である。中国人民を代表して日本の英雄の皆様に敬意を表明します。

最近、日本では、米国に対して大規模な大衆運動を開始し、米国のF105D型核搭載戦闘機と原子力潜水艦の日本駐留反対、すべての米軍基地の撤去要求と米軍武装部隊の撤退の要求、日本の領土沖縄の返還要求、日米”安全保障条約”の廃止、等々。すべてこれは日本人民の意思と願望を反映している。

中国人民は心から日本の正義の戦いを支援します。

■1月26日開催の反米デモの裏付け

毛沢東のこの発言の裏付けを取るために、1月26日に開催された反米デモの記録を探してみました。安保闘争の年表などを検索しましたが見つかりませんでしたが、出版労働運動史に記録が残っていました。

<1・26横田集会>

水爆搭載機の横田基地配置や、原子力潜水艦の横須賀寄港や、日韓会談など新年早々から池田内閣によって平和をおびやかす日米新安保体制が強引におしすすめられている事態に対して、1964年1月7日の労協機関紙に私は、年頭あいさつの中で「来る1月26日には、水爆と爆音反対!F105D配備阻止、平和と生活を守る横田大集会が行われます。

【情報ソース】
http://www.syuppan.net/mura_HP/narahp/rokyo/n_211.html

■日中国交回復前から日本の左翼の動きを熟知していた毛沢東

毛沢東が発言した「日本人が開催した1月26日の大反米デモ」は、横田集会でした。安保闘争の記録にも残っていないのであまり大きなデモではなかったのではないかと思います。しかし、それにもかかわらず、毛沢東がデモの詳細まで把握していたことには驚きます。

毛沢東の発言と出版労協の記事で、デモの訴える内容の「水爆搭載F-105D戦闘機配備阻止」と「原子力潜水艦寄港反対」という争点はきれいに一致します。

この事は、毛沢東は、米軍がどのような武器を日本に配備するかということには神経を張り巡らせており、また日本の左翼勢力がそれに対してどのような運動をするかということを把握していたということです。そして、毛沢東は、実際にそれらの情報を即入手できるだけの情報網を持っていたという事を意味しています。

更に、毛沢東が日本の愛国反米運動に強い関心だけでなく、この活動に関与していたかのような事を思わせる記事がありました

下記の記事は、1960年代の日中関係の出来事一覧です。

<中国反汚職網:日中関係の出来事60年より>http://www.lianzheng.com.cn/c34711/w10225939.asp

1964年1月26日の出来事が記述されています。以下日本語訳です。

1964年1月26日、日本人民は大規模デモを実施し、米国に、核搭載戦闘機と原子力潜水艦の日本駐留を反対し、沖縄返還と日米安全条約の破棄を要求した。
毛主席は、強い支持を表明する談話を発表し、北京で100万人支援大会を開催した。

ここで、驚いたのは日本の安保闘争、沖縄返還闘争を支援するために、北京で100万人集まった集会を開催したということです。

100万人の真偽の問題はありますが、この事実から、日本で60年代に起きていた「安保闘争」と「沖縄返還闘争」は毛沢東にとっては人ごとではなく、自分の事のように感じていたのだと思います。

■何故、毛沢東は沖縄復帰を支援したのか

では、何故毛沢東は沖縄を日本の領土と認め、沖縄の祖国復帰を支援したのでしょうか?

単純に、沖縄が祖国復帰しただけでは、中国に何のメリットもありません。当時、中国が喉から手が出るほど欲しかったのが「米軍基地撤去」「日米安保破棄」です。

という事は、「沖縄返還」は本当の目的ではなく、「日米安保破棄」と「日本共産革命」こそが毛沢東の目的だったと思います。つまり、沖縄を梃子として利用し、日米安保を破棄させようという戦略だったのだと思います。

当時はまだベトナム戦争真っ最中です。そして、沖縄は北爆するB-52の発進基地であり、ベトナムに派遣される海兵隊員のジャングル訓練基地でもあったのです。

そのような沖縄を米国が手放すわけがないと考える事が普通なのです。だから、毛沢東は米国が受け入れるわけのない要求を沖縄県民から上げさせ、日米安保を破棄に持って行こうと考えたのだと推測されます。だから、沖縄返還協定が調印されそうになると、更に受け入れるわけのない、「即時無条件全面返還」や「核抜き返還」などの米国が絶対受け入れる事のないスローガンを掲げたのです。

そのように理解すれば、沖縄祖国復帰運動の幾つかの謎が氷解するのです。

・何故、沖縄の復帰実現よりも、米軍基地撤去を優先するようなスローガンの掲げる活動をしたのか?→「本当に日本に復帰してしまっては困るから」

・何故途中から日の丸を掲揚しなくなったのか?→「日本に復帰するのではないから」

■「日本の領土沖縄」と発言した毛沢東

この文章にはもうひとつ重要なことがあります。それは、中国と交渉するにあたって非常に重要な事です。何故なら、毛沢東自身が沖縄を日本の領土と認めていた重要な証拠となる文章だからです。

この文章には中国語で、「要求帰還日本的領土沖縄」と書いています。「日本的領土沖縄」とは日本語で「日本の領土沖縄」という意味です。

最近は、中国が沖縄の事を表現する時は、「琉球」という言葉を使います。そして「周知の通り、琉球は古来よりわが国の領土であり、一時的に日本に占領された」などと主張しています。

しかし、中国建国の父、毛沢東自身が「日本の領土沖縄」と表現し、沖縄の日本返還を支援したわけです。そして、そのとおり1972年に復帰したのですから何も問題はないはずです。

もちろん、中国は尖閣諸島が沖縄に属している事も認めていたわけですので、何の問題もあるはずはありません。

これは、中国の琉球奪還運動や、琉球独立プロパガンダと戦う大きな証拠になる文書です。

(仲村覚)