民間沖縄対策本部■【証拠文書掲載】「日米安保破棄」を復帰運動の目標としていた「沖縄祖国復帰協議会」

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「沖縄祖国復帰運動の中心的存在だった「沖縄祖国復帰協議会」の実態は、沖縄県民の感情を巧みに利用した「安保闘争組織」であり、裏では日米同盟の破棄を企む中国共産党が糸を引いていました。」

このような事を私は今まで、何度か繰り返し述べています。何故なら、沖縄問題を知る上で最も重要な歴史的事実だからです。

この事実を理解することなくして沖縄問題を理解する事は不可能なのです。

つまり、普天間問題を解決することも歴史教科書問題を解決する事も不可能だということです。

さて、今回は、この事実を更に深く確認したいと思います。

■「米軍基地撤去」「日米安保破棄を」活動目標としていた「沖縄県祖国復帰協議会」

下記に、「沖縄県祖国復帰協議会」の資料を掲載しました。1969年3月22日の第十四会定期総会の資料です。

これを読めば「沖縄県祖国復帰協議会」がどのような目標で活動をしていたのか正確に知ることができます。

<資料:1969年3月22日 沖縄祖国復帰協議会 第14回定期総会>

最も重要な点は、復帰運動の目標です。

<資料:復帰運動の目的>

そこには、基本目標が四点記載されています。

(1)対日「平和」条約3条の撤廃

(2)日本国憲法の適用

(3)軍事基地の撤去

(4)日米安保条約の廃棄

まず、一番目「対日平和条約」とはサンフランシスコ講話条約の事です。日本はこの条約で主権を回復しましたが、同条約の3条で、沖縄は米国の統治下に置かれることになったのです。この条約の3条を撤廃するとうことは、日本に復帰するということですので復帰運動としては最も重要で正しい運動だと思います。

2番目の日本国憲法の適用も分断されている祖国をひとつの憲法のもとで統一するので当然のように思えます。

しかし、日本国憲法は、憲法9条という不戦の誓いをたてているので、次の2つの目標と組み合わせると日本独立の危機を迎える事になります。

それは、「軍事基地の撤去」と「日米安保条約の廃棄」です。

■東アジアの共産主義勢力を封じ込めていた沖縄の米軍

沖縄は敗戦後、米軍の統治下にあり植民地支配を受けていましたので、そこから独立をするために米軍事基地を撤去しその前提となっている日米安保を破棄するという考えは感情的には理解できます。しかし、当時の東アジアの軍事情勢は大きな緊張下にありました。ベトナム戦争真っ最中であり、米国は最盛期の1968年には54万人を南ベトナムに派遣していました。沖縄はそのベトナムへの発信基地、訓練基地として使われていたです。

また、中国は1964年に核実験に成功し、米ソ英仏に次ぎ5番目の核保有国となっていました。上記の祖国復帰協議会大会が開催された翌年の1970年4月23日には、中国発の人工衛星「東方紅1号」の打ち上げに成功し、実質的な核ミサイルの保有国になったのです。米国は中国の核をどのように封じ込めるかという大きな課題に遭遇し始めていた時期でもあったのです。

そのような軍事情勢の中、沖縄から米軍が撤退するということは、アジア全体が共産主義国家の支配を許すことを意味していました。

1970年前後は、次のように東アジアのミリタリーバランスが大激変した時期でした

(1) 米軍のベトナムからの撤退(1969年~1973年)

(2) 中国の核保有国化(1970年4月23日) ※初の人工衛星打ち上げ成功

(3) 米ソのデタント(緊張緩和)時代への突入(1969 年~)

その結果として次のような国交に大変化が起きました。

(1) 日米安保条約自動延長(1970年6月23日)

(2) 国連代表権の中華民国から中華人民共和国への移動(1971年10月24日)

(3) ニクソン大統領の電撃訪中(1972年2月21日)

(4) 日中共同声明(1972年9月29日) ※日本は中華人民共和国と国交を樹立し、中華民国と国交断絶

そして、沖縄の祖国復帰もこの大変動の中で起きた、大激変のひとつである事は疑いのない事実だと思います。

■1970年~72年は第一次中国軍拡ショック(仮説)

このような大激変は様々な要素が原因となっていると思いますが、最大の原因は、中国が核保有国となった事が理由だと思います。

1970年4月23日に中国が人工衛星を打ち上げ実質的核保有国になった事をきっかけに、米国が東アジアの外交方針を大きく変更したわけです。

つまり、ベトナムから撤退中の米国は中国と無用の衝突を避けるため国交回復を図り、且つ、中国の核封じ込めのために日米同盟を堅持しなければならなかったわけです。

その結果として、中国は人工衛星の打ち上げ成功から3年も経たない内に、国連常任理事国になり、米国とは国交回復に動き出しています。

これは、中華人民共和国が核保有国になり軍事力を拡大した事により東アジアの国際情勢が激変したので、仮説ではありますが、「第一次中国軍拡ショック」と称して良いのではないかと思います。

このような激変の国際情勢の中で行われていたのが、沖縄の祖国復帰運動であったという事です。

■沖縄の祖国復帰運動を強く支持していた毛沢東

このような激動の時代の中で、日米安保破棄を望んでいた国家リーダーが存在していました。それは、毛沢東です。

沖縄で祖国復帰運動が盛り上がり始めた頃、毛沢東は次のようなメッセージを人民日報に掲載しています。

<人民日報:中国人民は日本国民の愛国闘争を強く支持する(1964年1月27日)>

<「人民日報:中国人民は固く日本人民の偉大なる愛国闘争を支持する」(毛沢東)>

日本の人々が1月26日に開催した大反米デモは、偉大なる愛国運動である。中国人民を代表して日本の英雄の皆様に敬意を表明します。

最近、日本では、米国に対して大規模な大衆運動を開始し、米国のF105D型核搭載戦闘機と原子力潜水艦の日本駐留反対、すべての米軍基地の撤去要求と米軍武装部隊の撤退の要求、日本の領土沖縄の返還要求、日米”安全保障条約”の廃止、等々。すべてこれは日本人民の意思と願望を反映している。中国人民は心から日本の正義の戦いを支援します。

これで、気付きましたでしょうか?

朝鮮戦争で米国と戦った毛沢東にとって、最大の敵は米国であり、日米安保を根拠に日本に基地を置く米国ほど邪魔なものは無かったのです。

そのため、米国と対等に交渉するには、核兵器を持つ必要があると判断し、核開発を国家の重要戦略として位置づけていました。

その一方、日本国民が自ら日米同盟を破棄するように、日教組や労働組合の工作網を使って、日本国民が安保破棄に動くように扇動していたわけです。

その証拠に、毛沢東が応援している内容と安保闘争運動組織の目標は見事に一致しています。

沖縄県祖国復帰協議会の目標である、「沖縄本土復帰」、「米軍基地撤去」、「日米安保条約破棄」も毛沢東が応援している内容と見事に一致しています。

■1972年1月、中国で開催された「沖縄本土復帰闘争報告会」に参加した祖国復帰協議会のリーダー

では、沖縄県祖国復帰協議会は、本当に中国共産党とパイプがあったのでしょうか?

これに関する一次情報を見つけることはかなり困難ですが、東京大学名誉教授の石井明氏の論文につながりが見える事が記載されていました。

<資料:中国の琉球・沖縄政策(石井明)>

~途中省略~

<中国の琉球・沖縄政策(東京大学名誉教授石井明)>

1972年に入り、現実に沖縄返還が近づくと、中国は沖縄の代表団を招いている。同年1月12日、沖縄県中国友好訪問団(団長仲吉良新以下9名)が中日友好協会の招きで出発し、2月1日帰国しているが、その間、1月21日、この代表団は社会党1年生議員訪中団、総評・中立労連代表団とともに周恩来に会見している。周恩来は「日本人民の北方領土返還要求を支持する」と語ったほか、沖縄問題に関しては、いわゆる沖縄返還協定はペテンであるが、しかし、これは返還の始まりとみることができる、と述べている。沖縄返還の闘いが終わったわけではなく、今回の「沖縄返還」を一つのステップにして、沖縄人民の求める形の沖縄を取り戻す闘いはこれからも続く、という趣旨にも受取れる。
~途中省略~

沖縄代表団は翌日、1月22日、沖縄の反米・本土復帰闘争報告会に出席するのだが、周恩来の談話は、中ソ対立下、中国の指導者の関心が沖縄の反米闘争から、北方領土の返還を求める闘いに移りつつあったことをうかがわせる。

上の説明では、代表団にはいっているのは、「社会党1年生議員訪中団」、「総評」「中立労連代表団」です。

これらの団体のリーダーが1972年1月12日に訪中しているわけです。団長は「仲吉良新」という方の名前が記載されています。

以下プロフィールを下記に示します。

仲吉良新は、沖縄原水協理事長を努め復帰後には自治労副委員長まで務めています。沖縄原水協や総評、中立労連は、祖国復帰協議会と合同で、反米集会やストライキを開催していました。このような沖縄祖国復帰運動をリードした人が、中国とつながっていたわけです。つまり沖縄県祖国復帰協議会等は、「祖国復帰」を謳っていましたが、それらの組織のリーダーの心のなかの祖国は、共産主義国家であり中国だったという事です。
そして、この時の組織と思想を引き継いで行われているのが、現在の普天間問題であり歴史教科書問題なのです。

<仲吉良新氏のプロフィール>
昭和和6年8月18日生まれ。沖縄県出身。戦時中,熊本へ疎開中に家族6人が沖縄戦で死亡。昭和33年から琉球政府法務局につとめ,41年沖縄官公労を結成し初代委員長。沖縄原水協理事長,県労協議長として大衆・労働運動を指導した。56年自治労副委員長。平成3年10月9日死去。60歳。筑紫丘高卒。

■2010年~12年は第二次中国軍拡ショック(仮説)

さて、先程は、1970年~1972年は第一次中国軍拡ショックではないかと述べました。そして第二次中国軍拡ショック(仮説)が去年から始まっており、私たちは、既にその渦中にいるのだと思います。2010年から米国はイラクやアフガンから撤退すると同時に、台頭する中国に備えなければなりません。そして沖縄では米軍基地撤去運動が盛り上がっています。1970年と全く同じような東アジア情勢ができあがってしまっています。
1つだけ、大きな違いがあります。当時の政権は自民党であり、総理大臣が佐藤栄作でした。総理大臣が激しい安保闘争の中、信念を持って日米同盟を守り、米国との沖縄返還交渉をやりとげ、沖縄の祖国復帰を成し遂げたた人物です。このような人物を国家のリーダーに持っていたからこそ、日本は国家存亡の危機を乗り越える事ができたのです。
今日本に必要なのは、佐藤栄作のような国家リーダーです。東アジアの軍事情勢を肌感覚でつかみとり、その中での日米同盟の重要性、沖縄の重要性を深く理解し、信念を貫くことができる政治家です。

(仲村覚)

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