JSN■「誰も知らない沖縄祖国復帰の真実」(前半)

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■沖縄問題の根源は「沖縄県祖国復帰協議会」にある

母、仲村俊子から沖縄祖国復帰運動の話を聞きその史実を整理していくと、沖縄・日本の戦後史をひっくり返すような驚くべき事実が見えてきます。そして、その中には「沖縄問題」と呼ばれるあらゆる問題の根源が見えてくるのです。

現在にもつながる沖縄問題の発生源は、沖縄教職員会を母体として結成され復帰運動を担った「沖縄県祖国復帰協議会」にあります。まず、勘違いしてならないのは「沖縄県祖国復帰協議会」は愛国者の運動団体ではなく、反日革新勢力の共闘組織であったという事です。更に、安保闘争を行っている本土の組織とも密接なつながりがあったということです。

この団体の運動を現在引き継いでいるのが、普天間撤去運動や歴史教科書問題でデモや集会を繰り広げている沖縄の左翼団体なのです。

1960年代後半、本土は70年安保闘争の時代でした。しかし、安保闘争は本土だけで行われていたわけではなかったのです。沖縄祖国復帰運動の実態は「安保闘争」であり、「祖国復帰」という言葉は県民をだますためのオルグ(左翼の組織拡大)の手段だったのです。ほとんどの沖縄県民はその事実を知らずに、純粋な思いで運動に参加し安保闘争に引きずり込まれたのです。そのため、「即時無条件全面返還」という米国が受け入れるわけの無いスローガンを掲げて運動をし、日米安保継続を条件にした沖縄返還協定が批准されそうになると復帰はどうでもよくなり、「沖縄返還協定粉砕!」というスローガンまで持ち出す事になってしまったのです。

一方、保守勢力の沖縄自民党は祖国復帰協議会に参加しませんでした。参加しなかった理由は「復帰は、民族運動、闘争運動により勝ち取るものではない。」「国際情勢の現実を受け入れ、日米流の相互信頼によって勝ち取るものだ」という考えからです。沖縄自民党から見たら復帰協の運動は明らかに左翼運動と見えていたわけです。ただし、沖縄自民党は復帰運動が盛り上がった行政主席選挙の頃でも早期復帰には消極的でした。それは、昭和42年(1967年)11月14日の佐藤・ジョンソン会談で意見が一致した「施政権が日本に回復されることとなるときに起るであろう摩擦を最小限にするため,沖縄の住民とその制度の日本本土との一体化を進め、沖縄住民の経済的および社会的福祉を増進する措置がとられる
べきである。」という方針に歩調を合わせて「本土との一体化」を訴えていたからです。沖縄の祖国復帰は時期早々と見ていた沖縄自民党も、沖縄祖国復帰の実現に対して受身であり運動の主役を果たしていたとはいえないようです。

■復帰運動のクライマックス11・17「沖縄返還協定強行採決」と「幻の建議書」
この復帰運動のクライマックスは、 昭和46年(1971年)11月17日です。日本の戦後史の最も重要な運命の日だったといっても過言でない日です。

///【資料】///

<沖縄返還協定を強行採決 議場混乱、審議ストップ>
http://www.47news.jp/news/photonews/2008/11/post_1071.php
1971(昭和46)年11月17日、沖縄返還協定を審議中の衆院特別委員会で自民党が質疑を打ち切り、強行採決した。社会党など野党3党は無効を主張して国会審議はストップ。抗議行動が全国各地で展開されたが同協定は議長職権で24日開会された衆院本会議で可決。

写真:強行採決の瞬間、混乱する議場

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実は、この日は、屋良主席が11月14日に完成した建議書を携えて、国会に乗り込んだのです。乗り込んだ理由は、「沖縄を『太平洋のかなめ石』から『平和のかなめ石』へ転換させる」ために「米軍基地撤去」「自衛隊配備反対」を訴えるためです。しかし、国会に到着した時は、既に沖縄返還協定は強行採決されていたため、この建議書は国会で審議される事がなく、「幻の建議書」と呼ばれているそうです。正式には「復帰措置に関する建議書」という文書です。

///【資料】///
<沖縄県公文書館:「復帰措置に関する建議書」>
【資料名等】復帰措置に関する建議書 昭和46年11月18日
http://www.archives.pref.okinawa.jp/publication/2008/04/post-4.html

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■復帰協の安保闘争を粉砕した「沖縄返還協定批准貫徹実行委員会」
沖縄でデモが繰り広げられ「沖縄返還協定粉砕!」という声が怒号の如く飛び交う中、衆議院で沖縄返還協定が強行採決された事は奇跡ですが、それが実現した裏には歴史に残っていない出来事がありました。それが、これまで母が集会などで幾度か語った「祖国復帰運動」です。実はいま、歴史に残っている沖縄祖国復帰運動の実態は安保闘争であり、この書籍で母が語っている運動が沖縄で唯一行われた本当の沖縄祖国復帰運動なのです。

この運動が実際に組織として活動した期間は極めて短いものでわずか1ヶ月ですが、沖縄・日本の運命を大きく変えた活動でした。昭和46年10月中旬から準備を開始し10月30日に那覇市与儀公園で、「沖縄返還協定批准貫徹県民集会(1000名)」を開催しました。そして、わずか2日間で70団体の署名を集め11月3日には上京します。4日には、沖縄選出の国場、西銘両自民党代議士、稲嶺参議院議員と懇談、午後自民党本部で保利幹事長、江崎国民運動本部長を訪ね早期批准を要請しました。翌日5日には竹下内閣官房長官、山中総務長官、佐々木民社党書記長、床次沖縄北方領土特別委員長、田中栄一外務委員長らと会見し沖縄返還協定早期批准を要請します。

そして、6日から13日までは都心部やターミナルなどに、ビラの配布や街宣活動を展開しました。

///【資料】///

<沖縄返還協定貫徹実行委員会沖縄陳情団の活動を報道するやまと新聞の号外>
※沖縄は現在の普天間反対と同じ状況であることがわかります。

<沖縄返還協定貫徹県民大会「請願書」>
※上のやまと新聞号外にも「宣言決議」として全文が紹介されています。この決議に70団体が賛同し署名しました。「沖縄返還協定粉砕]はごく一部組合とマスコミの主張であり、決して沖縄県民の総意で無い事を国会・自民党に伝えたのです。

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その頃沖縄の復帰協は「復帰闘争(安保闘争)」の最後の戦いの準備が行われていました。屋良主席に「米軍基地撤去」「自衛隊配備反対」を日本政府に訴えさせるために「復帰措置に関する建議書」の作成が進められていたのです。それは14日に完成し、17日に屋良主席が携えて上京したものの既に沖縄返還協定が衆議院の特別委員会で強行採決されていたため、審議される事はなかったのです。復帰協の米軍基地撤去闘争は間一髪の遅れで空振りに終わったのです。

つまり、復帰協の日米安保破棄闘争を仲村俊子たちが立ち上げた「沖縄返還協定批准貫徹実行委員会」が粉砕する事に成功したのです。この運動により、今の日本の平和と繁栄を築いた二つの大きなものを守る事ができました。それは、沖縄が祖国日本と一体であるという事と日米安保条約です。

(後半に続く)

(JSN代表 仲村覚)