【八重山日報連載記事】■祖国復帰の先導者大濱信泉 〜佐藤栄作総理大臣の沖縄返還交渉のブレイン〜(第5回)

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■大濱の民間外交と「沖縄問題等懇談会」の誕生

大濱の訪米による百人を超える要人との会談と成果は、当時の外務大臣の仕事を遥かに凌ぐものでした。代表的要人を列挙してみます。ホワイトハウスでは、ウォルト・ホイットマン・ロストウ補佐官、安全保障を担当のウィリアム・ジョルデン補佐官、国防総省では、極東担当のマックノートン国防次官補、国務省ではユージン・ロストウ国務次官、日本部長のスナイダー氏、ハワイ選出のダニエル・井上上院議員、ハワイ選出の元日系人部隊陸軍大尉のスパーク・松永下院議員、前駐日大使のライシャワー氏、更にワシントン・ポスト、ニューヨーク・タイムズにも日本側の主張を取り上げるようパイプも作ったのです。

その活動の結果、政府に沖縄返還交渉に積極的な動きを求める機運が盛り上がり、佐藤首相は、ついに諮問機関の設置に踏み切り、昭和42年8月1日、「沖縄問題等懇親会」が誕生し、大濱はここでも座長をつとめることになったのです。

16日、初会合が開かれ佐藤首相はその挨拶の中で、「今秋予定している訪米に際し、沖縄及び小笠原諸島の施政権変返還問題について、米国側首脳と率直に話し合うつもりです。(中略)国民の願望と良識を背景にして、日米協力の基本線に沿って本土復帰への道を固めるべく、最善の努力を払う決意であります。」と沖縄返還への覚悟を内外に示したのです。

懇談会は7回開催され、毎回、2時間から2時間半、全員が積極的に発言し、活発な討議が行われ、佐藤総理も第3回と5回を除いて始終出席されました。第5回の懇談会は、10月19日に開催され、大濱座長から「総理の訪米も近づいてきているので、今日は施政権返還の目処をどうつけるか、基地のあり方につき現状のままの基地を認めるか、本土並に考えるか、また、米国側は基地と施政権は不可分とする考え方に固執しているようだが、不可分でないという理論づけは可能か、以下の問題について、意見交換を願いたい。」という提案で、出席委員全員で約2時間にわたって、真剣な議論が行われた。最後に、大濱は、中間報告のまとめを提案したが、様々な意見を併記したほうが、総理を拘束しなくて良いと判断され、事務局の山野幸吉(総理府特別地域連宅局長)がまとめ作業を行いました。

■大濱が作成した沖縄返還折衝の草案

第六回の懇談会は10月25日に開催され、山野が報告書を朗読して始まりましたが、どうしても意見がまとまらず最後の最終日に先送りされました。最終日の前日、大濱は山野を自宅に招き、一晩話し合い修正案を作成し、翌11月1日の正午からの懇談会に提出しました。その要旨は、「第一に沖縄施政権返還についての米国の合意を得たうえで、返還の時期を両三年以内に取り決めるという合意を得ること。」「第二に、施政権の返還に伴う諸問題を具体的に検討するために、日米の継続的な協議機関を設けること。」「第三に、施政権の返還を前提として、日本政府のすすめる一体化政策、格差是正、経済振興策などについて、可能な限りアメリカ側も協力するという合意を得ること。」でした。

この草案は、全会一致で承認され、佐藤首相はこの中間報告を携えて訪米したのでした。

昭和42年11月14日から二日間にわたり佐藤首相とジョンソン米大統領の会談が行われました。そして、15日に発表された共同声明には、大濱の中間報告の内容が次のように組み入れられていました。

「総理大臣は、さらに、両国政府がここ両三年内に双方の満足しうる返還の時期につき合意すべきであることを強調した。大統領は、これら諸島の本土復帰に対する日本国民の要望は、十分理解しているところであると述べた。同時に、総理大臣と大統領は,これら諸島にある米国の軍事施設が極東における日本その他の自由諸国の安全を保障するため重要な役割りを果していることを認めた。」

「総理大臣と大統領は,さらに,施政権が日本に回復されることとなるときに起るであろう摩擦を最小限にするため、沖繩の住民とその制度の日本本土との一体化を進め、沖繩住民の経済的および社会的福祉を増進する措置がとられるべきであることに意見が一致した。両者は、この目的のために、那覇に琉球列島高等弁務官に対する諮問委員会を設置することに合意した。」

 この瞬間に沖縄をめぐる日米関係が飛躍的に大前進したのです。

回り始める復帰準備と白紙状態の基地のあるべき姿

昭和42年11月の佐藤ジョンソン会談に基づき、翌年1月19日の日米政府間の交換文書「米国との沖縄諮詢委員会に関する取極」により、高等弁務官に対する諮問委員会が設置されました。これは、通常「日米琉諮問委員会」と称されています。日本、米国、琉球政府からそれぞれ代表が参加したからです。日本代表は高瀬侍郎(前職ビルマ大使)、米国代表・L・C・バース、沖縄代表・瀬長浩(元琉球政府副主席)です。3月1日には初会合が開かれ、昭和45年5月1日までの約3年の間に189回の会合を開き、会計年度や税制の一体化、交通インフラの整備など47項目の勧告を行いました。この諮問委員会の設置によりスローガンだった「祖国復帰」は、日米と現地沖縄の智慧を集結させた準備段階へと移っていったのです。その発火点は大濱が佐藤総理に献策して発足させた沖縄問題等懇談会の中間報告だったのです。

沖縄復帰に向けて歯車は回り始めたものの、その実現に向けては巨大な課題が残されていました。沖縄の復帰運動の中核組織の沖縄県祖国復帰協議会は、昭和42年10月12日に臨時総会を開催し、「即時無条件全面返還」をスローガンとして打ち出していたのです。つまり米軍基地撤去運動に変貌していたのです。一方、日米間では、施政権返還後の沖縄米軍基地の状態について何もきまっておらず、政府内部でも真剣に対米交渉の準備を勧めている様子が無く白紙状態のままだったのです。

大濱は、佐藤首相に会い「ジョンソン大統領との会談に基づき施政権返還の時期について確約を得るために渡米される時期も迫っているが、施政権返還後の基地につき日本の世論の満足する条件をアメリカに受諾させるには、相当困難が予想されるので、民間学者によって研究会を作りたい。そうすれば世論の啓発指導にも役立つし、またアメリカ側にも影響を及ぼすことが出来、政府の方針の決定にも寄与すると思う。」と相談したところ佐藤首相は賛成したのです。