【八重山日報連載記事】■祖国復帰の先導者大濱信泉 〜佐藤栄作総理大臣の沖縄返還交渉のブレイン〜(第3回)

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■戦後の日米共同声明での沖縄の位置づけ

戦後日本では、新しい総理大臣が就任すると、まず米国を訪問し、大統領と会談を行い、二国間の絆を確認し、それを共同声明という形で世界に発表していました。その際、米軍統治下にある沖縄についてもそのあり方について毎回述べられていました。

昭和32年6月22日の岸総理とアイゼンハワー大統領の声明では沖縄については次のよう述べられています。

「総理大臣は,琉球及び小笠原諸島に対する施政権の日本への返還についての日本国民の強い希望を強調した。大統領は,日本がこれらの諸島に対する潜在的主権を有するという合衆国の立場を再確認した。しかしながら,大統領は,脅威と緊張の状態が極東に存在する限り,合衆国はその現在の状態を維持する必要を認めるであろうことを指摘した。大統領は,合衆国が,これらの諸島の住民の福祉を増進し,かつ,その経済的及び文化的向上を促進する政策を継続する旨を述べた」

これは、サンフランシスコ講和条約では文書に記されていなかった、沖縄の潜在主権が日本にあることを記した最初の外交文書であり、日本にとっては大きな前進です。しかし、極東の脅威が存在する限り沖縄を日本に返還しないことを明言し、更に、施政権者として、沖縄住民の対策も米国がすべて責任を持ち、日本政府の関与を拒否する表現になっていたのです。

しかし、日本は高度経済成長期にはいり、本土と沖縄の格差は目に見えて拡大していき、そのような中、政府として沖縄の支援を実施するために、設置されたのが、「南方同胞援護会(昭和36年から大濱信泉が会長)」です。

 これは、総理府が「南方同胞援護会」へ補助金を出し、同会が沖縄の社会福祉施設をつくり、その管理を沖縄の関係団体に委託するという形式をとっていたのです。何故、総務省が窓口かというと、沖縄は外国でないから外務省ではいけない。また、都道府県に含まれていないので自治省でも困るという妥協の結果なのでした。

祖国復帰と日本政府の沖縄財政支援

 昭和36年、6月21日と22日にわたって、池田勇人首相とジョンソン大統領の会談が行われました。会談後発表された共同声明の沖縄に関する部分は次のとおりです。

「大統領と総理大臣は,米国の施政下にあるが,同時に日本が潜在主権を保有する琉球及び小笠原諸島に関連する諸事項に関し,意見を交換した。大統領は,米国が琉球住民の安寧と福祉を増進するため一層の努力を払う旨を確言し,さらに,この努力に対する日本の協力を歓迎する旨述べた。総理大臣は,日本がこの目的のため米国と引き続き協力する旨確言した。」

  これまで、米国は日本政府による沖縄への経済支援を拒否していたのですが、この声明で歓迎する立場に180度転換したのです。これにより、日本政府は「南方同胞援護会」を経由せずとも、直接、琉球政府へ財政援助できるようになったのです。

 南方同胞援護会の編纂した「沖縄復帰の記録」の資料集によると、昭和37年から日本政府による沖縄財政支援が始まり、当初わずか55、279ドルだった日本政府の援助金は、38年には、416,278ドル、39年には2,664,111ドル、40年には4,258,047ドルと急増していきました。その結果、琉球政府の財政における日米の援助額が均衡してきたのです。

 そして、昭和40年1月、佐藤総理は沖縄訪問に先立ち、ジョンソン大統領と会談を行い、次のような共同声明を発表しました。

 「大統領は,施政権返還に対する日本の政府及び国民の願望に対して理解を示し,極東における自由世界の安全保障上の利益が,この願望の実現を許す日を待望していると述べた。両者は,琉球諸島の住民の福祉と安寧の向上のため,今後とも同諸島に対する相当規模の経済援助を続けるべきことを確認した。」

この声明により、日本政府の沖縄財政支援は更に加速し、昭和42年には米国の財政援助額を追い越すことになり、米国民政府の琉球政府への指導力が急速に弱まっていったのです。

■佐藤総理大臣の訪問

 昭和40年8月、佐藤栄作首相は、数名の閣僚と田中角栄自民党幹事長、多くの国会議員を従えて、現職の首相として初めて沖縄を訪問しました。中南部はもちろん、名護にも足を運び、日帰りですが、宮古、石垣も訪問しました。現職総理の沖縄訪問は、戦後の沖縄では空前のことであり、それだけに沖縄県民の感激も大きいものがありました。

「沖縄同胞のみなさん。私は、ただ今、那覇飛行場に到着いたしました。かねてより熱望しておりました沖縄訪問がここに実現し、漸くみなさんと親しくお目にかかることができました。感慨まことに胸せまる思いであります。沖縄が本土から分れて二十年、私たち国民は沖縄九十万のみなさんのことを片時たりとも忘れたことはありません。本土一億国民は、みなさんの長い間の御労苦に対し、深い尊敬と感謝の念をささげるものであります。私は沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとつて『戦後』が終わっていないことをよく承知しております。これはまた日本国民すべての気持でもあります。」

これが、戦後祖国から分断され、異民族統治下にあえいできた沖縄県民に対する、現職総理の第一声です。県民に勇気と希望を与えたことはいうまでもありません。総理が行く先々の沿道には、地元住民が人垣をつくり、老若男女が満面の笑みをたたえ、手に日の丸を振っての大歓迎ぶりでした。

この時大濱は、佐藤総理に請われて、特別顧問として同行しました。沖縄訪問に先立ち、声明の他にも具体的政策のお土産も必要とのことで、その打ち合わせにも立会い、宮古、八重山でもテレビが見られるようにすること。教員給与の半額国庫負担の二つを強調しましたが前者は声明に組み込まれ、後者大蔵省の強い反対で見送られました。これでは、訪問の効果が不十分になってしまうと大濱が総理に考慮を促した結果、現地で陳情を聞く際、公約を言明することにし、そこで打ち出された方針が琉球大学への医学部設置だったのです。