沖縄フォーラム■【重要イベント】0812沖縄戦英霊顕彰靖國集会 「後世に語り継ぐ義烈空挺隊の志」〜忘れ去られた沖縄奪還作戦〜

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日本民族の存亡をかけて、総力をあげて戦った沖縄戦は、後世に伝えていかなければならない、日本民族の歴史です。

その中でも、空挺隊により決行された特攻攻撃である、義烈空挺隊の凄まじい、沖縄奪還作戦は、後世に伝えていかなければなりません。

今年の沖縄戦英霊顕彰靖國集会は、義烈空挺隊の志を日本民族の歴史として刻み込みたいと思います。

お誘い合わせの上、ご来場をお願い致します。

https://www.facebook.com/events/1816927995020581/

【重要イベント・拡散・シェアをお願いしますm(__)m】
 
 
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    0812沖縄戦英霊顕彰靖國集会
  「後世に語り継ぐ義烈空挺隊の志」
   〜忘れ去られた沖縄奪還作戦〜
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◎日時:8月12日
  ◇受付:12 時半  ◇開会:午後1時 ◇閉会:3時半
 
◎場所:靖國会館2F(靖国神社境内内)
 
◎参加費: 1,000円
◎FBイベント(下記リンクから参加表明をお願い致します。)
 
◎参考動画(是非御覧ください)
 <当法人PV>
 
 
————<プログラム>————
 
□司会
  ◎川口広美(キャリアコンサルティングメンバー)
 
■芸能奉納
   「鷲の鳥」・「貫花」

  ◎八重山古典民謡保存会 慶田盛宏研究所(沖縄県指定無形文化財保持者)

 
■主催者挨拶  
  ◎吉田康一郎
   (前東京都議会議員,一般社団法人日本沖縄政策研究フォーラム理事)
 
 
■来賓挨拶
  ◎衣笠陽雄氏(特攻隊戦没慰霊顕彰会専務理事・元陸上自衛隊第一空挺団長)
  ◎大山孝夫(那覇市議会議員)
   (その他調整中)
 
■動画上映
   義烈空挺隊紹介動画
   https://youtu.be/znLoO_xXQo4
  
■沖縄からの報告
  ◎森田草士(チーム沖縄)
 
■特別講演
  義烈空挺隊玉砕の地慰霊報告
   ◎奥本康大(「空の神兵」顕彰会会長)
 
■活動報告
  「和歌に込められた先人の想い」
   ◎講師:平井仁子(キャリアコンサルティングメンバー)
 
■活動提言
  「語り継ごう!義烈空挺隊の志」
   ◎仲村覚(一般社団法人日本沖縄政策研究フォーラム理事長)
 
■決議文朗読・採択
   ◎我那覇透也(キャリアコンサルティングメンバー)

【動画:義烈空挺隊の真実】

義烈空挺部隊の真実(ナレーション)

歴史は語り継がれなくてはいけない。
まして父祖たちが国を守るために命を賭けて戦った戦争の歴史を、正しく、また永遠に語り継ぐのは、今の時代を生きる我々の責務である。
大東亜戦争、最後の戦いともいえる沖縄戦において、「義烈空挺隊」の若者が、沖縄を守る為、また日本を護る為、雄々しく戦ったことを忘れてはならない。
昭和19年6月15日、サイパン島にアメリカ軍が上陸を開始、日本軍は激しい戦闘を続けたものの、一ケ月後には、陥落してしまった。
サイパン島を確保したアメリカ軍は飛行場を拡張し、日本本土への空襲を開始した。
これに対して、日本軍はサイパン島に空襲をかけたが、力およばず、サイパン島はB29の前線基地となり、本土空襲は激しさを増していった。
この対応策として、陸軍はサイパン島の敵飛行場に爆撃機で強行着陸し、B29はじめ格納されている敵戦闘機を破壊する「特攻作戦」を立案した。
この作戦に、「義烈空挺隊」が召集された。この部隊は陸軍落下傘部隊から選抜された将兵で編成された。
奥山道郎大尉を隊長とする136名の落下傘兵、諏訪部忠一大尉率いる32名の飛行兵で構成された、総勢168名である。陸軍中野学校出身の10名もこの中に含まれていた。
またこの部隊には、沖縄出身の将兵もいた。山城金栄准尉、比嘉春弘伍長の二人である。
陸軍落下傘部隊は大東亜戦争前に創設されたが、奥山隊長は創設時からの隊員で、下士官兵の教官を務めたこともあった。
落下傘部隊はパレンバン作戦で華々しい戦果を挙げた。
その後、何度か落下傘作戦は計画されたが、守勢に回った日本軍には落下傘部隊を投入する機会に恵まれず、奥山隊長たちは、宮崎県唐瀬原で、連日、訓練に励んでいたのである。
パレンバン作戦に参戦しなかった奥山隊長たちにとっては、義烈空挺隊での沖縄出撃は、謂わば、初陣の機会となったのである。
隊員たちは、漸く巡ってきた「出撃命令」に心躍らせたと伝えられている。
サイパン島への突入日は昭和19年12月24日と決まった。
ところが、航空軍司令部は操縦技量に疑問を抱き、命令を下せなかった。
理由は、夜間の長距離洋上飛行は熟練操縦士でも困難と判断され、決行は一時、延期された。
出撃基地である浜松で待機したが、その頃には燃料補給の中継基地、硫黄島がアメリカ軍の攻撃で使用が困難となり、結局、昭和20年1月27日にサイパン攻撃は中止となった。
続いて、2月19日、アメリカ軍は硫黄島に上陸。
またしても義烈空挺隊の投入が計画され、出撃に備え待機していたが、アメリカ軍が硫黄島を占領した為、またもや作戦は中止された。
更に4月1日には、アメリカ軍は沖縄本島にも上陸を開始した。
アメリカ軍は、上陸とほぼ同時に北飛行場、中飛行場を制圧と同時に、両飛行場には150機以上もの戦闘機・爆撃機が配置された。
この頃、日本軍は陸海軍をあげて、沖縄を守る為、艦船攻撃機や特攻機を出撃させたが、多大な損害が生じていた。
皮肉にも、北・中飛行場から飛び立ったアメリカ軍の戦闘機により、迎撃(げいげき)されたのである。
そこで台頭したのが、両飛行場制圧の為の、義烈空挺隊投入であった。
当初、本土決戦を覚悟していた大本営は、沖縄戦に精鋭部隊である義烈空挺隊を投入することを躊躇ったが、漸く5月18日に義烈空挺隊の投入を決定したのである。
この間、「義烈空挺隊」奥山隊長をはじめとする全隊員は、夜間戦闘の猛訓練を繰り返していた。
操縦士は、夜間洋上長距離飛行訓練、戦闘員は夜間の航空機や施設などの爆破訓練、
陸軍中野学校出身者たちも、戦闘員と共に戦闘訓練を行い、精強な戦闘集団となっていた。
爆破訓練は、アメリカ軍の主力爆撃機B29を一発で破壊するため、実物模型の機体に帯状の爆雷を仕掛けたり、爆弾を仕込んだ特殊な棒を主翼に吸着させる技も習得していた。
5月24日18時40分、義烈空挺隊は熊本の健軍飛行場から出撃していったのである。
その出撃時の様子を記録した、映画フィルムや写真などが、数多く残されている。
奥山隊長と諏訪部飛行隊長とが笑顔で言葉を交わす映像、また隊員たちが最後の盃を交わす映像、笑顔で爆撃機に乗り込む隊員たち、どの映像からも、これが特攻隊として戦場に赴く将兵たちの姿とは、到底、思えないものである。
奥山隊長が最後の訓示をした映像も、また然りである。
この屈託のない姿の裏には、一体、何が隠されているのであろうか。
出撃に備え、猛訓練を積んできた自信の顕れなのだろうか、また初めて国の為、家族の為に働きの場を得た喜びの顕れだろうか?
奥山隊長はじめ隊員たちの、無邪気な表情や仕草が、眩しく映り、涙を誘うのである。
目標は、沖縄の中飛行場と北飛行場。
中飛行場は今の嘉手納基地であり、北飛行場は旧読谷飛行場で、現在は日本に返還され、その跡地は、読谷村役場、読谷中学校、運動公園などになっている。
この時の編成は、先導視察機の一機、それと空挺隊員搭乗の重爆撃機が12機。義列空挺隊員はそれぞれに14名ずつが搭乗した。
戦果については、日本側には具体的な記録は残っていないが、アメリア軍の記録によると、「第5番機の航空機は、指揮塔の北東より南西に伸びた滑走路に車輪を下ろさず着陸した。約10名の日本兵が無事着陸し、少数の勇敢な者が如何なる事を成し遂げるかを実際に示した。着陸と殆ど同時に爆薬による飛行場の航空機の炎上が始まった。
航空機33機が損害を受け、7万ガロンのガソリンが燃えた。この物凄い捨て駒による混乱は殆どの者が想像することが出来ないだろう。
全体的に評価するならば、この「義烈空挺隊」の作戦は成功とみなすことができる。」と成果を讃えている。
この義列空挺隊の壮絶なる突入は、内外に大きな衝撃を与えた。
アメリカ軍は、日本軍の凄まじさに畏怖の念を強くしたことは言うまでもない。
義列空挺隊員は、持てる力を全て出し尽くして散華された。
この将兵たちの崇高な勇姿を、後世の人達に伝えなくてはならない。
現在、読谷村には「義烈空挺隊玉砕之地」の木柱の慰霊碑が建立されている。
しかし、慰霊碑が建立されている場所は、爆撃機が強行着陸した場所ではない。
地元中学校が建設された時に、地元の人でも知らないサトウキビ畑の片隅に移設させられた。
義烈空挺隊の歴史を正しく伝えるためには、慰霊碑は元の着陸場所近くに移設し、また、
木柱の寂しげな碑ではなく、「碑文」も備えた、朽ちることのない慰霊碑を建立出来ることを願っている。
多くの人に、「玉砕之地」の慰霊碑に参拝して戴くことが、散華された義烈空挺隊隊員の鎮魂に繋がるものではなかろうか。