【沖縄県祖国復帰45周年特集】
〜占領下で守り抜いた日本人の魂〜「日本語教育」〜
日本の国土の一部、国民の一部、民族の一部が異民族により支配を受けたという歴史は、日本建国以来の長い歴史の中で一度しか経験したことはありません。それは、大東亜戦争の敗戦による沖縄に上陸した米軍による沖縄統治です。
しかし現在、日本民族は分断されることなく、全ての国民が一つの政府のもとで生きています。それは、昭和47年に沖縄県が祖国復帰を果たしたからです。
建国以来、民族分断の経験も、そして祖国復帰を果たして民族再統一を果たした経験も一度しかありません。日本民族が再び分断されることは絶対にあってはならないのですが、
◎民族が分断されるとはどういうことなのか?
◎民族の再統一を果たすとはどういうことなのか?
これらを学んで、後世の日本人に残すことは非常に重要であることは間違いありません。
特に、
◎沖縄はどうやって祖国復帰を果たしたのか?
◎異民族支配の中でどのように生きてきたのか?
◎祖国復帰を果たすために何を守ってきたのか?
ということを、日本国民全員で共有し、子孫に伝えていくべき重要なことではないかと思います。
今回は、敗戦後、米軍占領下におかれた沖縄で、どのようにして「日本語教育」を守ってきたのかがわかるエピソードを紹介いたします。
まだまだ、研究途中ではありますが、米軍統治下の沖縄でも、学校教育が「日本語」で行われたことが、スムーズに沖縄の祖国復帰を果たしたことであることは間違いありません。そのために尽力された先人への感謝を忘れてはならないと思います。まず、米軍統下で学校の再開にあたってのエピソードをご紹介いたします。
■エピソード1■<言語教育はどこまでも標準語(日本語)で行け>
昭和21年 沖縄諮詢委員会(当時の自治政府)通達
敗戦の痛手を置い、設備や備品もそろわないまま、学校教育は再開された。米軍占領という事態に直面し、米軍の県民に対する占領政策がどのようなものになるのか、教育の目標はどこに設定するのか、過去における日本の植民地政策が日本語教育による日本化であったことを人々は思い起こし、言語はどうなるのかという不安が広がっていった。このような教育者たちの不安を払うように昭和21年(1946年)、沖縄諮詢委員会の文教部から 「言語教育はどこまでも標準語 (日本語) でいけ。 迷うことなかれ」 の通達が出された。 この通達は 「混迷の中にあった人心に決定的な安定感を与えるもの」 であった 。
この「標準語でいけ」との通達がいかに戦後の沖縄の教育界に、 大きな安堵感と希望をあたえたかについて、 那覇市史はこう記述している。「教育課程の編成はまず、教育の目標を設定することから始まるが、終戦直後の収容所時代においては、そのような手順を踏むことはまず、不可能であった。 何よりも占領下において、国語による教育が行えるかという問題があった。そんな時『標準語で行け』とは『日本語で行け』ということであった。それは取りも直さず『日本人としての教育を断行せよ』ということであった。(中略)その頃の沖縄は、まったく先の見えない混沌とした闇の中にあったので、これはまさに 『闇を照らす一条の光であった』 」
(「沖縄にみる教育の復興」22ページより引用)
<沖縄諮詢会>1945(昭和20)年8月15日、米軍は、各地の捕虜収容所から住民代表120人余を石川に集め、敗戦を知らせるとともに諮詢会発足を命じた。諮詢会委員は8月20日の投票で15人が選出された。俗に「表15人衆」という沖縄政治の礎を築いたメンバーである。前列左から仲村兼信、前上門昇、ワトキンス軍政府政治部長、志喜屋孝信、又吉康和、護得久朝章、後列左から安谷屋正量、当山正堅、仲宗根源和、平田嗣一、松岡政保、山城篤男、糸数昌保、比嘉永元の各委員(大宜味朝計、知花高直の両委員は写っていない) 沖縄タイムス社刊『写真記録 沖縄戦後史』より |
多くの日本国民が玉音放送で敗戦を知った昭和20年8月15日、ラジオの電波の届かない沖縄では捕虜収容所にて米軍から日本の敗戦を知らされたのでした。そして、その日に沖縄諮詢会の発足を命じられました。沖縄戦で沖縄県庁は完全に行政機能を失っていたので沖縄諮詢会は、戦後初の沖縄の行政組織であり、その後、名称や規模を変えながら、後の琉球政府に発展していきます。
当時は学校といっても米軍払い下げのテントやかまぼこ型のコンセットハウスが8割を占めていました。一部は、青空教室も残っていました。
沖縄諮詢会で文教部長を務めていたのが、後に興南高校の初代校長を務めた山城篤男先生です。昭和21年に「言語教育はどこまでも標準語 (日本語) でいけ。 迷うことなかれ」の通達を出された方です。
山城篤男先生は、米軍統治下の最も厳しい時代に、最も懸命な判断を下し、後の沖縄県祖国復帰の最も重要な土台を守った偉人ではないでしょうか?
沖縄の教育者は学校教育は日本語で行う方針を固めていましたが、まだ米軍側は「琉球語」を国語としようとしていたことがわかる記録があります。以下、ラジオ放送を開始するときのエピソードを紹介いたします。
■エピソード2■<米国軍政府の「琉球語によるラジオ放送」の指示を拒否した川平朝申>
昭和23年(1948年)3月
1948年春頃、軍政府情報教育部ディフェンダー・ファー次長からの指示を受けたタール同局情報課長が、「放送は琉球語でするように川平に圧力をかけた」との記述がある。川平は2時間にわたって以下のような説得をして、タールに指示を撤回させたという。
「琉球語は日本語である。一般的に今日の琉球語は日本の地方語であり、日本語放送のNHKでは放送言語を普通語といい、放送言語として統一している。それが今日、放送している言語である。演劇や娯楽番組では地方語を用いているが、それはあくまで娯楽番組のみ用いられているのである。琉球語という言語だけを使用すると聴衆者を制限することになり、おそらく首里、那覇近郊の30才以上の人間しか理解できないだろう。しかも琉球語で科学、芸術、学芸の表現は極めて困難で、放送は極一部の聴衆者、特にあなたが念頭に置いているらしい老人層の具にしかならないだろう。ラジオ放送は全県民に聴衆できるようにしてこそ、その使命は果たされるのです。」(「戦後米国の沖縄文化戦略」より引用)
<川平朝申>
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沖縄戦に投入された米軍幹部には、ジョージ・P・マードックなど文化人類学者がまとめた民事ハンドブックが配られていました。沖縄を統治している米軍は、日本復帰運動を沈静化させるための離日政策を進めていましたが、その土台になったのが、このハンドブックを介して得た「沖縄人は日本人とは異なる民族」という認識だったのです。ラジオ放送を琉球語で行うよう要請したのもその認識が土台にあったのであり、琉球語は日本語の方言ではなく、日本の先住民族である琉球人独自の言語だと認識していたのだと思います。
■エピソード3■<米国信託統治領になっても国語は日本語>
〜昭和26年(1951年)4月28日沖縄群島議会議事〜
終戦直後の沖縄では、その地位があいまいなため、米軍は中長期的な復興計画も立てることができませんでした。そして、講和条約の締結が近づいてくると沖縄の人たちはピリピリしてきます。講和条約で沖縄は日本に戻ることができるのか、それとも米軍に永久支配されてしまうのか?当時の国際情勢を見ると米軍統治が続く可能性が高いのは容易にわかるため、このままでは南洋の土人と同じ扱いをされるのではないかと沖縄の将来が不安になってきたのです。そして、そうならないためには、良き国際人となるためには、積極的に英語を学び教養を高めていかないと行けない。占領軍の言語である英語を沖縄の国語にして、学校教育を英語で行ったほうが、沖縄の未来は開けてくるのではないかという声もあがってきていたのです。
その時、沖縄群島会議(後の琉球政府の立法院議員、現在の沖縄県議会に相当)で、以下のやりとりが記録されています。
昭和26年(1951年)4月28日沖縄群島議会議事◎宮城久栄くん ◎文教部長(屋良朝苗くん) ◎宮城久栄くん ◎文教部長(屋良朝苗くん) |
<屋良朝苗>
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この議会でのやりとりから約半年後の9月8日、サンフランシスコ講和条約が締結され、懸念していたように沖縄の日本復帰の願いわ叶わず、逆に、正式に米軍統治下に置かれることが決まってしまったのです。
アジアでイギリスや米国の植民地になった香港やフィリピンなどは、学校で英語教育を行い公用語とされているので、沖縄も同じ道をとっても可笑しくなかったのですが、沖縄ではその後も一切、公立学校の教育現場で米軍から英語の教科書を支給されたことも、英語を使って教育を行うこともなかったのです。
米軍統治下で小学校の教育を日本の教科書で勉強していたときは、当たり前のようにしか思っていたのですが、今思えば、他国に類をみない誇りに思える歴史ではないかと思うのです。そして、その背景には、当時の文教部長だった屋良朝苗先生の「日本人としての誇り」「日本人の魂を捨てない決意」があってこそではないかと思います。
今回紹介した三つのエピソードからわかることは、
◎「日本人としての魂は、日本語にある」
◎「いかなる国難に遭遇しても【日本語教育】は決して手放してもならない。」
ということではないかと思うのです。
これが、日本国民全員が共有するべき、沖縄県祖国復帰の重要な歴史ではないかと思うのです。
(一般社団法人日本沖縄政策研究フォーラム理事長 仲村覚)