JSN■明治維新と沖縄

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■中国の侵略目標は尖閣諸島だけではない。

最近、中国の尖閣諸島への侵略行為があからさまになってきました。また、尖閣諸島だけでは無く、中国国内の言論では「日本は琉球に対する主権はない!」「中国は琉球独立運動を支援するべきだと!」「早急に香港やマカオのように、国務院琉球事務書をを設立するべきだ」との声まで出てきます。

基本的に政治的な事に対する言論の自由はない国ですので、中国政府の意図が現れていると考えるべきです。これらは、中国共産党の得意とする、プロパガンダ(情報宣伝工作)であり、銃弾を使わない戦争をしかけてきているのだと気付かなければなりません。もし、日本政府が「中国は単に尖閣諸島の領有を主張しているだけだ。」と認識し、その対応だけに駆けずり回る様だと、国家を滅ぼす大きな大失敗をする事になります。

現在起きている問題は、そのような小さな問題ではないのです。それは、「沖縄の帰属問題」「日本と中国による沖縄の領有権争い」なのです。

■維新直後に明治政府が最優先で取り組んだ「琉球帰属問題」

日本の歴史を振り返ると、今、沖縄を舞台に起きている中国との外交問題は初めて経験した事ではない事がわかります。時計の針を130年前に戻し、その時の日本政府の対応を確認する事により、今起きている問題の本質が見えてきます。

それは、明治維新直後から始まりました。明治4年(1871年)、廃藩置県を行った明治政府は、翌年明治5年(1872年)には、琉球王国を廃止し、「琉球藩」を設置しました。新政府の設立後数年にして、琉球が日本の版図である事を内外共に示したのです。

しかし、実際に沖縄県が設置されたのは、明治12年(1879年)です。琉球藩の設置から沖縄県の設置まで、7年間もかかりました。それには理由があります。その7年間の間には、廃藩置県後も清国との朝貢関係を続けている琉球の帰属、領有権をめぐり清国との熾烈な外交交渉が繰り広げられていたのです。

■宮古島遭難事件と台湾出兵

明治5年から7年までの間は、宮古島島民遭難事件をめぐって開戦ぎりぎりの外交交渉が繰り広げられました。

<宮古島島民遭難事件>
http://ja.wikipedia.org/wiki/宮古島島民遭難事件

明治4年、宮古島の年貢運搬線が台湾の高雄州に漂着し、乗組員69人のうち54人が当地の原住民に殺害されるという事件がありました。日本政府は清朝に厳重に抗議しましたが、現地の原住民は「化外の民(国家統治の及ばない者)」という返事があり、日本政府は台湾出兵を行いました。(中止命令が出ましたが、西郷隆盛の弟の従道が拒否して出兵。)

<台湾出兵>
http://ja.wikipedia.org/wiki/台湾出兵

この事件に対する清国との交渉は平行線で進捗しませんでしたが、日本政府は土壇場で「台湾蕃地は清の領土ではない」という主張を引っ込め賠償金を引き出す方向に交渉の論点を移し、明治7年10月31日「議定書」(互換条款)の調印にこぎつけました。その結果、「日本の台湾出兵は、『日本国民』を保護するための義挙活動である」と清国が条約上認める形になりました。これで日本政府は、琉球に対する清国の宗主権の主張を封ずる措置を講ずることができたわけです。

この事件において、日本側で外交交渉にあたったのは、当初は「柳原前光」、その後、難航した末「大久保利通」が全権弁理大臣として北京に派遣され外交にあたりました。清国で交渉にあたったのは、清国最大の政治家、当時の直隷総督兼北洋大臣の「李鴻章」です。後に日本軍は日清戦争でも彼の率いる北洋軍と戦う事になります。

台湾出兵は、清国との開戦には至りませんでしたが、実質的に日清戦争の前しょう戦だったといえるのではないかと思います。

■分島・改約問題

そして、明治12年(1879年)に沖縄県の設置を果たします。しかし、清国から沖縄県の設置に対する抗議は続きました。

翌明治13年(1880年)、アメリカ前大統領グラントが仲裁に入り、沖縄県から先島諸島を分割し清へ割譲し、その見返りとして、日本に中国内地での通商権を与える案を提示し、調印直前までこぎつけましたが、清が拒絶したため頓挫しました。最終的に、領有権問題の解決は明治27年(1894年)の日清戦争後まで持ち込まれる事になりました。

■沖縄と日本は一体でなければ、日本も沖縄も独立国でいられない。

では、何故明治政府は琉球の版図の確定を急いだのでしょうか?単純に薩摩藩の属国だったから日本政府が引き継いだのでしょうか?推測でしかありませんが、「西洋列強から日本を護るため」だっと私は思います。

明治維新の頃、既に琉球王国は米国と「琉米修好条約」を結んでいました。浦賀にペリーが来航した時、ペリーは既に琉球を艦隊の補給基地、駐屯基地として利用していたのです。1953年にペリーは下田で江戸幕府へ大統領の親書を渡したあと、琉球へ寄港し資材を補給し香港へ出港しています。そして、香港から沖縄を経由して浦賀へ二度目の来航をしています。つまり幕末の時点で、米国は既に琉球をアジアの中継基地として活用していたわけです。

このような便利な拠点ならハワイと同じように米国の殖民地にされる可能性が高かったとおもいます。(1843年:イギリスがハワイの領有を宣言。1849年:フランスがハワイの領有を宣言)

その危険性を明治政府は知っていたからこそ、先手を打って日本の独立を護るために琉球を日本に取り込んだのだと思います。それは、日本にとっても沖縄にとっても幸福な事だったとおもいます。もし、琉球王国がそのまま独立国だったら、琉球は必ず他国の殖民地になっていたはずです。それは、米国かもしれませんし、フランスかもしれません。既に東アジアの位置で弱小国が独立国であることは許されない状態になっていたのです。

そして、沖縄が第三国の殖民地になった場合、日本は東シナ海の制海権を失います。そして、東シナ海の制海権を失った日本もシーレーンを失うため独立国でいられなくなります。

■仮説:沖縄県の設置なくして、日本は日清戦争も日露戦争も戦えなかった。

では、ここでシミュレーションをしてみたいとおもいます。明治政府が沖縄県設置に積極的に取り込まなかったらどのようになったでしょうか?

沖縄はご存知のとおり、地政学的に重要な位置にあります。それは、日清戦争、日露戦争においても例外では無いはずです。日清日露戦争にて共通の海戦がありました。それは、「黄海海戦」です。黄海と沖縄は一見関係ないように思えますが、実は沖縄が日本だったからこそ、黄海海戦は戦えたのだと私は理解しています。もし、明治維新後、琉球王国が日本と国交断絶し、清国と軍事同盟を築き、清国の艦隊が沖縄の港を利用する事を認めたらどうなったでしょうか?

ここで、東アジアの地図を見ていただきたいと思います。黄海の入り口は、日本海ではありません。それは東シナ海です。沖縄を制するものは、東シナ海を制するのです。

おそらく、日本の艦隊は黄海に行く事も難しくなったのではないでしょうか?また、九州の防衛にも相当の軍事力を割かなければならない状態になっていたと思います。つまり、「沖縄県の設置無くして、日本は日清戦争も日露戦争も戦えなかった。」ということです。

■現日本政府は、沖縄外交を明治政府に学んで臨むべき

さて、明治4年から12年までの沖縄県設置に到るまでの日清間の外交を確認し、次にその外交の目的を考えてみました。現在、「沖縄は日本」というのは当たり前になっていますが、わずか130年前はそうでなかった事がわかります。明治維新直後に新政府が大きな苦労と努力の末に獲得し、日清戦争の勝利により確定したのです。

私たちは、よく考えた上で行動しなければ、明治維新の努力を崩壊させてしまいかねない瞬間に立ち会っているのです。今、尖閣諸島の領有権を中国に主張されている日本政府は、この先人の足跡をよく学んだ上で外交にあたってほしいものです。