南極探検の精神が込められていた地名「開南」

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南極探検の精神が込められていた地名「開南」

そもそも、開南とはどこのことなのか?

上の道路標識は右に行くと開南方向と標しています。

しかし、開南という場所はあくまでも通称であり、住所として「開南」という地名は存在していません。

ぼんやりと那覇のある一帯が、開南と称されている(いた?)ようです。

開南とはここのことだ!とピンポイントで示すことはできません。

しかし、ここが開南の中心というイメージの場所があります。

開南バス停及び開南交差点です。

このバス停のある交差点を「開南交差点」といい、近くには開南郵便局があります。

また、この交差点から与儀に降りていく道を「開南せせらぎ通り」と名付けられています。

復帰前は、那覇の市場に買い物に行くときは、「開南に行く」と言っていたような記憶があります。

当時の開南バス停は、多くの県民が那覇の市場に買い物に来る玄関口でした。

しかし、残念ながらバス停が開南という地名の発祥の地というわけではなく、このあたりがた「開南」と称されていたので、バス停の名称を「開南」にしただけのようです。

ところで、開南とはどのあたりのことを意味していたのでしょうか?

一説によりますと、戦前は現在の樋川、与儀、楚辺、泉崎あたりを「開南」と称していたようです。

開南小学校というのは存在しますが、開南の中心ということでは無いようです。

実際に存在しない地名がこれだけ広くな使われていたということは、「開南」という言葉が、当時の沖縄の人たちはに好まれていたのでしょう。

そこで、開南という地名の由来について調べてみました。

「開南」の由来は、1936年(昭和11)、樋川の高台に私立開南中学校が開校したことにあるようです。設立したのは、沖縄県立第二中学校(現在の那覇高校)の校長だった、志喜屋孝信(しきやこうしん)です。その開南中学校は、昭和19年に夏頃には校舎が陸軍病院として接収され、10月10日の米軍による大空襲で消失してしまいました。

戦前の開南中学校の正門
志喜屋孝信(しきや・こうしん)、終戦直後に昭和20820日、米国軍政府の諮問機関である沖縄諮詢会の委員長に選ばれる。翌年米国軍政府したの沖縄民政府知事に任命される。
志喜屋孝信が自ら情熱を持って設立した学校に「開南」という名前をつけたのは、強い思いがありました。それは、1911年(明治44)に白瀬(しらせ)隊長率いる日本初の南極(なんきょく)探検隊が乗り込んだ「開南丸(かいなんまる)」に因(ちな)み、「日本の南を開く」との意図のもとで命名したのです。
開南丸(命名は東郷平八郎)
また、開南丸を命名したのは、日露戦争でロシアのバルチック艦隊に勝利を収めた東郷平八郎でした。

戦後、学校長不在の開南中学校は再建されることなく 昭和22年(1947年)6月6日、その跡地に開南小学校が開校し、1952年に(昭和27年)に現在の泉崎に移転し、開南の名前が引き継がれることいなりました。

開南中学校のあった正確な住所は調べましたが、残念ながら不明です。開南小学校が移転したあと、何に使われたのかも不明です。

「開南」という言葉の発祥の学校の跡地が不明で、「開南」という言葉だけが広がったのも不思議な話だと思います。

日本初の南極探検隊を率いた白瀬矗(しらせ・のぶ)。最終階級は陸軍中尉

白瀬隊、南極に「開南湾」「大隈湾」を命名

さて、白瀬中尉は南極にまで「開南」という地名を刻み込んできました。

明治43年(1910年)、南極探検隊白瀬隊と隊員27名を乗せた木造帆船「開南丸」は、5万人が見送る中、品川芝浦港を出発しました。明治45年(1912年)1月16日、ついに南極大陸に初上陸し、その地点((南緯78度15分の)を「開南湾」地点)と命名しました。

続いて、1月28日午前0時20分、南緯80度5分、西経156度37分に日章旗を立て、「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名しました。

また、「大和雪原」からの帰途に「大隈湾(おおくまわん)」も命名しました。

それは、白瀬最大の支援者、探検隊の後援会の会長、大隈重信から取った名前です。南緯77度50分の地点です。

昭和12年(1938年)、国から「大隈湾」「開南湾」の命名に対して感謝状が贈られました。

では、実際にそのような地名が公式な地図に掲載されているか確認してみましょう。

国土地理院が作成した南極大陸の地図が公開されており、誰でもダウンロードできます。

<100万分の1南極大陸地図>

https://www.gsi.go.jp/antarctic/newtopic2024-04-18.html

白瀬隊が上陸したのは、上の地図の赤枠のあたりです。

下に拡大して掲載します。

拡大すると、「大和雪原」「kainan Bay」「Okuma Bay」と白瀬隊が命名した地名が記載されています。

この3つの地名は、1933年に米国地理学協会により公認されました。

白瀬海岸という地名もありますが、これは、1961年にニュージーランドが命名した地名です。

さて、開南という地名を調べていくと、その由来は日本初の南極探検隊を南極まで送り届けた「開南丸」であることがわかりました。

また、その名前は、東郷平八郎が送ったものであり、南極にもその名称にちなんで、「開南湾」が今も存在していることがわかりました。

那覇市の開南と南極の開南湾と同じ名称が存在し、その由来が同じ「開南丸」とは驚きでした。

単なる地名ではなく、東郷平八郎や白瀬中尉の南極開拓の精神が込められていることを知ると、今までと違って、非常に重みもあり、誇りに思える名前だと感じてきましたが、皆様いかがでしょうか?

開南丸やそれを見送る大隈重信が映っている映像が残っていましたので、下に掲載いたします。

【動画】1910年11月29日 白瀬中尉 南極探検に出発(明治43年)

「興南」「拓南」の名称の由来

そこで、更に気になることが出てきました。沖縄には開南と似た名前に「興南」「拓南」という名前があります。

「興南」は、甲子園で有名になった「興南高校」、現在は、中高一貫で、学校法人興南学園となっています。興南高校は、終戦直後の米軍統治下で、沖縄諮詢会教育部長、沖縄民政府で文教部長を務め、荒廃した戦後の沖縄の教育復興に尽力した山城 篤男が私立高校として設立した学校です。昭和37年(1962年)4月23日 、開校式が行われ山城篤男が初代学校長に就任しました。

現在の甲南学園のHPには、

建学の精神に

科学文明の発達と複雑多岐を極める国際情勢に対応し、南(沖縄)を興す人材育成を目標とし、校名を興南と命名された。

と山城篤男の志を継承しています。

拓南は、拓南製鐵株式会社を中心とした拓南グループ(拓伸会)の名称です。

それは、やはり拓南グループの理念から命名した名前でした。

https://www.takunan.co.jp/company/

社是を「琉興鐵拓」の四文字とし、その意味は、

「鉄を拓いて琉球を興おこす」

です。

ここでいう琉球とは決して琉球独立を意図するものではなく、当時は米軍統治下の琉球政府のもと沖縄の行政は行われており、沖縄県は存在しておりませんでしたので、沖縄県民という言葉も使うことが許されず、琉球住民ということばがつかわれていましたので、沖縄を興すという意味と理解して良いのだと思います。

さて、沖縄県は、日本最南端の県ですから、名称に「南」という言葉が使われることは、多いのは当然ですが、南と合わせて「開く」「拓く」「興す」という言葉が使われるのは、先人の沖縄発展させたいという強い気概を感じずにはいられません。

先人がつけた名称の由来を知ることによって、見える沖縄の風景も変わってくるのではないでしょうか。