【衝撃リアルシミュレーション】もし、沖縄が日本に復帰していなかったら…?誰も知らない祖国復帰の意義

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【衝撃リアルシミュレーション】もし、沖縄が日本に復帰していなかったら…?誰も知らない祖国復帰の意義

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プロローグ:主席の長い一日

1971年、秋。琉球政府主席執務室の空気は、鉛のように重かった。屋良朝苗(やらちょうびょう)は、固く目を閉じ、ラジオから流れるニュースの続きを待っていた。祖国復帰。27年という長いアメリカ世(ゆー)の終わり。その実現こそが、彼の政治生命のすべてだった。

しかし、その日の昼過ぎに飛び込んできたニュースは、彼の願いを無慈悲に打ち砕いた。

「臨時ニュースを申し上げます。沖縄返還協定、批准の見通し立たず。日米間で交わされた密約の存在が……」

ラジオのスイッチを切る。静寂が、かえって耳の奥で鳴り響くどよめきを大きくした。終わった……。

屋良は、自分が率いてきたはずの「革新共闘会議」の幹部たちの顔を思い浮かべた。彼らの掲げる「即時無条件全面返還」という非妥協的なスローガンが、琉球住民の熱狂的な支持を得ていることは知っていた。屋良自身も、その先頭に立たざるを得なかった。それが、主席という立場にいる自分の「建前」だったからだ。

だが、彼の「本音」は、たとえ基地が残ろうとも、まずは日本に復帰し、日本の民主主義の枠組みの中で、粘り強く基地問題と向き合っていくことだった。しかし、その声は、日に日に高まる急進的なうねりの中で、誰にも届かなくなっていた。

窓の外で、人々が復帰協の建物に向かって走り出すのが見えた。彼らの顔には、絶望と怒りが浮かんでいる。だが、屋良には分かっていた。復帰協の中枢にいる者たちにとって、この事態は絶望ではない。彼らが待ち望んだ、計画通りの「号砲」なのだ。自分が、そのための道化を演じさせられていただけだったという、屈辱的な真実が胸に突き刺さる。

その夜、沖縄は燃え始めた。そして屋良朝苗の、出口のない長い闘いが始まった。

第一章:歴史という導火線

復帰協の青年部で活動に明け暮れていた比嘉誠(ひがまこと)にとって、「祖国復帰」はスローガンであり、大衆を束ねるための旗印だった。復帰協の中核をなす人民党の幹部たちと議論を重ねるうち、彼の考えはより冷徹で、戦略的なものへと変わっていった。

彼らの真の目的は、復帰ではなかった。それは、交渉を意度的に破綻させることにあった。

北京の同志たちとも通じるその三段階戦略は、周到に練り上げられていた。

  • 第一段階(大衆の組織化): 「祖国復帰」という、琉球住民の誰もが反対しにくいスローガンを掲げて大衆運動を組織し、その主導権を完全に掌握する。
  • 第二段階(交渉の破綻): 日米両政府が到底受け入れられない「即時無条件全面返還」を絶対条件として突きつけ、交渉を破綻させる。
  • 第三段階(返還交渉のやり直しを求め責任の転嫁と琉球独立への誘導): できるわけの無い返還交渉のやり直しを日本政府に求め、交渉を進めない責任を「裏切り者の日米帝国主義」と転嫁し、琉球住民の怒りを一気に「琉球独立」へと誘導する。

この戦略を成功させるため、彼らは二つの強力な「歴史」という武器を、何年もかけて丹念に磨き上げてきた。一つは、日本による併合を「琉球処分」という侵略の物語として語り直し、琉球住民に被害者意識を植え付けること。もう一つは、沖縄戦で住民を守らなかった日本軍の記憶を掘り起こし、自衛隊を「人殺しの集団」として憎悪の対象とすること。

協定破綻の報を受け、復帰協はすぐさま次の行動に移った。彼らがまず掲げたのは、「独立」ではなかった。

「欺瞞に満ちた協定は粉砕された! 我々が要求するのは、真の復帰だ! 基地のない、核のない、真の平和復帰を実現するため、返還協定をやり直せ!

それは、大衆の感情を繋ぎとめるための、巧妙なワンクッションだった。日本政府が混乱の極みにある今、協定のやり直しなど不可能であることは分かりきっている。この「不可能な要求」を日本政府が拒絶した時こそ、最後のカードを切る瞬間だ。

「ヤマトは、我々の声に耳を貸す気すらない! もはや彼らに期待するのは無意味だ。我々の道は、我々自身で切り拓くしかない!」

その時こそ、準備された反日の歴史観が最強の武器となり、「琉球社会主義共和国」という真の目標が、民衆の怒りの炎の中から立ち現れるはずだった。導火線には、見事に火がついたのだ。

第二章:コザの赤い夜

協定破綻のニュースは、乾いたサトウキビ畑に投げ込まれた一本のマッチだった。その夜、最初に燃え上がったのはコザ(現沖縄市)だった。

ゲート通りで小さな食堂を営む金城良子(きんじょうりょうこ)は、店のシャッターを固く下ろし、息を潜めていた。外からは、ガラスの割れる音、怒号、そして何かが燃える不気味な音が絶え間なく聞こえてくる。

「ヤンキー・ゴーホーム!」

聞き慣れた叫び声に、いつしか新しい言葉が混じり始めていた。

「ヤマトゥ・ゴーホーム!」

良子の夫は、嘉手納基地で働く軍雇用員だった。店の客の多くも、米兵やその家族だ。基地がなければ、この街は生きていけない。復帰すれば、本土からの観光客で賑わうだろう。そんなささやかな希望を、良子は抱いていた。だが、シャッターの向こうで起きていることは、彼女の理解をはるかに超えていた。

窓の隙間から外を覗くと、黄色いナンバープレート(米軍関係車両)の車が次々とひっくり返され、火を放たれている。その炎の向こうで、若者たちが日の丸を引きずり下ろし、火の中に投げ込むのが見えた。彼らの目は、怒りと、そして奇妙な喜びに爛々と輝いていた。

良子は震えた。これは、ただの暴動ではない。何かが終わって、そして、もっと恐ろしい何かが始まろうとしている。この島は、どこへ向かうのだろう。シャッターを叩く激しい音に、良子は耳を塞いだ。

第三章:失われた議席、生まれた英雄

炎の夜が明けても、屋良朝苗の執務室の重い空気は変わらなかった。むしろ、島全体を覆う熱狂が、彼の孤独を一層際立たせていた。

協定破綻の衝撃は、東京・永田町にも及んでいた。復帰前の特別措置法に基づき、沖縄から国政参加選挙で選ばれていた参議院議員の喜屋武真栄(きゃんしんえい)をはじめとする衆参7名の国会議員は、返還協定の批准失敗という前代未聞の事態により、その日のうちに国会法上の根拠を失い、即日、その身分を失った。彼らは、もはや「日本の国会議員」ではなかった。

この「追放」にも等しい出来事は、琉球住民の怒りに火を注いだ。「ヤマトは我々を仲間として受け入れる気など、最初からなかったのだ」と。

屋良の電話は鳴りやまなかった。東京の政府関係者からは、事態を収拾できない無能さをなじる声。ワシントンの高等弁務官府からは、治安維持への協力を求める高圧的な命令。そして何より彼を苦しめたのは、復帰協の幹部たちからの、矢のような催促だった。

「主席、今こそ声明を出す時です!『協定やり直し』を日本政府に突きつけましょう!」 「これは裏切りに対する、我々の輝かしい勝利です!」

勝利だと?屋良は吐き気を覚えた。自分の生涯をかけた夢が、目の前で灰燼に帰したというのに。

彼は、革新共闘会議にコントロールされた操り人形だった。主席という立場にありながら、彼にはもはや、この狂気の流れを止める力は残されていなかった。このまま主席の座に留まれば、自らの本心とは真逆の、北京の描くシナリオに沿った独立への道を、自らの手で承認させられることになるだろう。それは、死ぬよりも辛い屈辱だった。

数日後、屋良朝苗は、憔悴しきった顔でテレビカメラの前に立った。 「琉球住民の皆さん……。私は本日をもって、琉球政府主席の職を辞します。私の非力により、琉球住民の皆様が長年願ってきた祖国復帰の道が閉ざされた責任は、すべて私にあります……」 声は震えていた。 「しかし、これだけは申し上げたい。憎悪の炎からは、何も生まれません。我々が今、進もうとしている道は、本当に我々が望んだ道なのでしょうか。どうか、冷静に……」

その言葉は、熱狂に包まれた沖縄には届かなかった。屋良の辞任は、復帰協の中核をなす勢力にとって、最後の障害が取り除かれたことを意味した。彼らはすぐさま、後継の主席候補として、ある人物に白羽の矢を立てた。

東京から「追放」されたばかりの、喜屋武真栄。教職員会の重鎮であり、急進派の思想に近い彼は、今や「日本に裏切られた沖縄の象徴」として、悲劇の英雄となっていた。

その後の行政主席選挙で、喜屋武は琉球住民の怒りと同情を一身に集め、対立候補に圧倒的な大差をつけて当選した。屋良朝苗という、最後の「ブレーキ」を失った沖縄は、新たなリーダーの下、制御不能のまま、未知の時代へと突入していく。

第四章:二つの琉球

喜屋武の主席就任は、独立への道を決定的なものにした。しかし、その声は一つではなかった。

那覇の喫茶店で、比嘉誠はかつての友、島袋賢勇(しまぶくろけんゆう)と向かい合っていた。賢勇は、保守・反共を掲げる「琉球独立党」の若き論客だった。

「誠、お前たちのやっていることは狂気の沙汰だ。屋良主席を追い込み、北京の傀儡を立てるとは!」賢勇が声を荒らげた。

「傀儡だと?俺たちは、ヤマトからもアメリカからも搾取されない、ウチナーンチュのための国を創るんだ。北京の同志たちは、その正義の戦いを支援してくれると言っている!」誠は拳を握りしめた。

「同志だと?連中は、この島を太平洋に出るための不沈空母にしたいだけだ。お前たちが掲げる社会主義は、新しい支配者を手招きしているに過ぎん。俺たちが目指すのは、米国や日本と対等なパートナーとして交渉し、自由な経済で自立する真の琉球共和国だ」

「まだアメリカの奴隷であり続けるというのか!基地に経済を依存し、魂を売り渡す独立など、ありえない!」

二人の議論は、決して交わることはなかった。一方は、復帰協が育てた歴史認識を正統とし、反米・反日の社会主義革命を目指す「A派」。もう一方は、共産主義という新たな脅威を警戒し、西側陣営との協調による現実的な独立を模索する「B派」。

沖縄は、独立という熱に浮かされながら、その内側で深く、そして激しく二つに引き裂かれていった。かつて「島ぐるみ」で共有されたはずの願いは、冷戦という世界の巨大な断層線に沿って、無残に砕け散った。

第五章:東京と北京のチェス盤

沖縄の混乱を、東京は無力感とともに見つめていた。

沖縄返還に政治生命を賭けた佐藤栄作は、密約の暴露と交渉破綻の責任をとり、失意のうちに退陣した。後を継いだ田中角栄と大平正芳は、この外交的惨事から国民の目を逸らすため、中国との国交正常化を急いだ。

1972年9月、北京。人民大会堂の重厚な空気の中、田中と周恩来が対峙していた。しかし、交渉の力学は、史実とは決定的に異なっていた。沖縄という最大の外交カードを失い、対米関係も冷却化した日本は、あまりにも弱い立場でこのテーブルについていた。

周恩来は、日本の弱みを見逃さなかった。台湾問題で厳しい要求を突きつけるだけでなく、彼は静かに、しかし鋭く新たなカードを切った。

「沖縄人民の苦しみには、我々も同情を禁じ得ない。彼らの民族自決の権利は、尊重されるべきではないかね」

大平の背筋を、冷たい汗が伝った。中国は、沖縄の親中独立派(A派)への支援をちらつかせ、揺さぶりをかけてきている。沖縄問題にこれ以上関わる意欲も能力も失っていた日本政府に、この圧力と渡り合う力は残されていなかった。

数日後、発表された日中共同声明には、世界を驚かせる一文が盛り込まれていた。

「日本政府は、琉球人民の民族自決権を尊重する」

それは、日本が沖縄に対する主権を曖昧にし、中国の関与に道を開く、致命的な譲歩だった。東京の政治家たちは、沖縄という厄介な問題から手を引くための代償として、その未来を北京との外交ゲームの駒として差し出したのである。

第六章:基地の万力

島の内戦は、イデオロギーだけではなかった。それは、日々の糧をめぐる静かな、しかし切実な戦いでもあった。

金城良子の食堂の客足は、暴動以来、ぱったりと途絶えていた。たまに来る常連の軍雇用員や、基地周辺で商売を営む仲間たちと交わすのは、ため息ばかりだった。

「独立、独立って言うけどよ、良子さん。明日から基地がなくなったら、俺たちの給料はどこから出るんだ?」

基地から得られる収入は、かつて沖縄の経済の4割を占めていた。基地は憎い。だが、基地がなければ生きていけない。この巨大な矛盾が、万力のように島民の暮らしを締め付けていた。

A派は「基地をなくせば、中国やソ連が援助してくれる」と叫んだ。しかし、その言葉を信じられる者は少なかった。一方、B派は「基地は残し、アメリカと交渉して、もっと高い賃料と権利を勝ち取るべきだ」と訴えた。それは夢のない話だったが、今日のパンを約束してくれる現実的な響きがあった。

イデオロギーの純粋さよりも、経済的な安定。戦後の貧しさを知る世代にとって、その渇望はどんな理想よりも強かった。沖縄の民意は、A派の急進主義への恐れと、B派の現実主義への期待との間で、大きく揺れ動いていた。

第七章:見捨てられた島

東京の官僚は、分厚い沖縄関連ファイルの表紙に、赤いスタンプで「凍結」と押した。そして、報告書の最後にこう書き加えた。「今後の対沖縄政策は、”戦略的放置”を基本とする」

返還に尽力しながらも、その努力を憎悪で返された日本の政治家たちの心には、深いトラウマが刻み込まれていた。「我々は裏切られたのだ」と。沖縄は、触れてはならない政治的禁忌(タブー)となった。

この日本の態度は、沖縄の人々にとって「やはりヤマトは我々を見捨てた」という歴史の再演でしかなかった。裏切られた日本と、見捨てられた沖縄。相互不信の溝は、もはや埋めようもなかった。

日本の不在によって生じた力の空白に、米国と中国は容赦なく流れ込んできた。沖縄は、日本の県になることなく、米中の思惑が激突する国際的な管理地帯へと変貌していった。

第八章:凍てついた現在(2025年)

そして、50年の時が流れた。

2025年、那覇。比嘉誠は、中国からの資金で運営される「琉中友好文化センター」の名誉館長に収まっていた。皺の刻まれた顔で、彼は若者たちに「琉球処分」の歴史を語り、中国との連携こそが琉球の未来だと説いていた。

島袋賢勇は、ワシントンに本部を置くシンクタンクの沖縄支部長として、中国の脅威を訴えるレポートを書き続けていた。彼のオフィスは、米軍基地を見下ろす高台にあった。

金城良子の食堂は、シャッター街の一角で細々と続いていた。壁には、色褪せたドル紙幣が数枚、記念に貼られている。孫は、島に仕事がないと言って、数年前に本土へ渡ったきりだ。

街には、中国語と英語の看板が溢れ、沖縄の言葉はかすれていた。選挙のたびに、米中の代理戦争が繰り広げられ、政治は完全に機能不全に陥っている。経済は、米軍基地からの収入と、中国からの非公式な援助に依存し、自立の道は見えない。

沖縄は、独立を達成することも、どこかに復帰することもなく、ただ大国間の対立を象徴する「凍結された紛争の島」として、そこに存在していた。

エピローグ:防波堤の記憶

歴史に「もし」はない。だが、この物語は、現実とは異なる道を歩んだ沖縄の姿を描いたものである。

現実の歴史では、1972年5月15日、あの日に無事、返還協定が批准され、沖縄は日本に復帰した。だからこそ、この小説で描かれたような、不毛で混沌とした「長い夜」が訪れることはなかった。復帰後、観光産業は飛躍的に発展し、道路やダムは日本政府によって整備され、復帰前には日常茶飯事だった断水すら、過去のものとなった。

私達は、自覚も認識もしていないが、現実の歴史で成し遂げられた沖縄返還は、北京の思惑を挫き、このシミュレーションが描いた急進的な独立運動の激化を、40年という長きにわたって封じ込めた「防波堤」だったのかもしれない。

しかし、2010年代以降、再び独立の声が静かに、しかし確実に広がり始めた。それは、40年の時を経て、あの時断ち切られたはずの導火線に、再び誰かが火をつけようとしている兆候なのだろうか。

沖縄の、本当の夜は、まだ明けていない。

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