【講演報告(四国中央市)】「祖国防衛の聖地・沖縄」建国記念の日四国中央市民の集い(2025年2月11日)

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講演概要報告

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建国記念の日に、日本会議四国中央支部にお招きいただき、「祖国防衛の聖地、沖縄」というテーマで講演をさせていただきました。

 

最初に、沖縄県と愛媛県の歴史的な絆として、昭和28年の第八回国民体育大会の開会式(会場:松山市堀之内競技場)において、沖縄選手団が先頭を切って入場行進する映像を上映しました。

 

国体

沖縄県選手団は、戦後初の参加で天皇皇后両陛下のご臨席を賜りました。

昭和天皇は沖縄の選手団に思いを寄せた御製を詠まれ、その御製も紹介しました。

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さて、皇紀2685年、世界で最も長い歴史を持つ日本。

 

その長い歴史において、奮闘したものの力及ばず米軍による沖縄への上陸、占領を許してしまい、初めて戦争に負けて、初めて民族分断統治をされてしまいました。

 

しかし、わずか27年後に民族の再統一を果たした世界一団結の強い民族であることを世界に示したのです。

すべての都道府県の若者の命を賭して戦った沖縄戦と沖縄県祖国復帰は世界に誇る日本民族の歴史なのです。

 

沖縄における激戦において、愛媛県の歩兵科22連隊は、主力として米軍を撃破しましたが、糸満の地で玉砕してしまいました。

 

その玉砕の地、糸満市の真栄里には、終戦後、地元住民が遺骨を拾い集め、遺烈を伝え英魂を弔うため、栄里の塔を建立しました。

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沖縄公文書館で下の写真を発掘しました。                                                                                

甲板に大きな穴のあいた写真です。

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日付をみると3月27日、場所は慶良間諸島と記載されています。

石垣市で講演会を行ったときに、八重山日報が1面トップに取り上げてくださった記事がこちらです

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実は、沖縄戦最初の特攻隊は昭和20年3月26日、石垣島出身の伊舎堂用久中佐率いる誠第一七飛行隊4名と独立飛行第二十三中隊(直掩機)の6名の合計10名が慶良間諸島に集結する米艦隊に対する体当たり攻撃です。

その中に、愛媛県出身の若者もいました。

誠17飛行隊の黒田繹少尉(21歳)です。

 

伊舎堂隊長の直属の部下です。

 

写真に残っている甲板の穴は、愛媛県出身の黒田繹少尉によるものであるかもしれません。

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体当たり攻撃の翌日の新聞も残っています。そこには、陸軍特攻隊の有志として4名の写真が掲載されています。画質が悪くて判別は困難ですが、その中の一人は、黒田少尉に違いありません。

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伊舎堂中佐は、よく上司から「特攻隊長になったのだから家族に会ってこい」と言われましたが、決して石垣にいかないので、上司は親心で、伊舎堂のために飛行隊の基地を台湾から石垣島の白保飛行場まで移駐させましました。

 

それでも、伊舎堂は

「自分以外の者は全員県外出身者です。私だけが会うわけにはいきません。」

と、家族が差し入れに来ても頑なに面会を断り、一度も面会することなく3月26日未明慶良間に向けて体当たり攻撃に出撃したのです。

その、県外出身者の一人が黒田少尉だったのです。

それ以外にも愛媛県からは、陸軍特攻隊で12名、海軍特攻隊で37名が散華しています。

まさしく、沖縄の戦いは愛媛県民の歴史だったのです。

引き続き次のテーマでお話をさせていただきました。

◎沖縄殉国学徒隊のお話。

◎大田実中将の最後の打電。

◎山中貞則が佐藤総理に沖縄に行くように膝詰めで談じ込んだ話。

◎佐藤総理大臣の那覇飛行場での歴史的な演説。

◎沖縄の復帰運動が日の丸から赤旗に急変したこと。

◎沖縄返還協定批准貫徹県民大会が開催され、上京陳情団を派遣し早期批准を訴え、強行採決で批准されたこと。

◎昭和47年5月15日、日本武道館での佐藤総理大臣の演説の映像

佐藤総理

◎戦後の沖縄が左傾化した理由:講和条約後、本土の保守勢力より先に共産党系の勢力が沖縄の復帰運動に協力したから。

◎沖縄県祖国復帰記念歌「世界に誇る祖国の歴史」上映

祖国の歴史

最後の歌では、涙を流した方も少なくなかったようです。

お声がけをいただいた、元愛媛県議会議員の森高様、そして実行委員長を始め、実行委員の皆様には大変お世話になりました。

貴重な機会をいただき、心より感謝申し上げます。

<スライド>

https://drive.google.com/file/d/1DBk0s0EHkzkwSF1y2kgKmPim-2YSjDvt/view