民間沖縄対策本部■動画:犠牲者80人の冥福を祈る~尖閣列島戦時遭難死没者慰霊之碑参拝~(2011.6.18)

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■動画:犠牲者80人の冥福を祈る~尖閣列島戦時遭難死没者慰霊之碑参拝~(2011.6.18)>

(撮影:衆議院議員 新藤義孝)


■動画からスクリーンショット

<尖閣列島戦時遭難死没者慰霊の碑>


■「尖閣列島戦時遭難死没者慰霊之碑」について

<千早丸遭難の碑・資料01>
http://senkakusyashintizu.web.fc2.com/page013.html#千早丸遭難の碑04

昭和45年(1969)5月15日石垣市長石垣喜興に提出された「尖閣群島標柱建立報告書」の中に 「石垣市長の命を受け尖閣群島に標柱を建て行政区域を明示すると共に、昭和二〇年七月同群島付近で疎開中に 遭難した遭難者の霊を供養する慰霊碑を建立する目的で別紙日程表により、第三協栄丸(一四・六四トン)と第三住 吉丸(五六・七三トン)を傭船して、一九六九年五月九日午後五時出港予定にて準備完了をした。 同日午後三時から桃林寺に於いて尖閣群島遭難者合同慰霊祭がおこなわれた。
-中略-
同日午前七時、魚釣島の南側二〇〇メートル沖の海上に到着投錨致しました。 魚釣島は尖閣群島五島其の他沖の北岩、沖の南岩、飛瀬の中最大の島で周囲は岩石で砂浜は殆んどなく岩石が、切り立って海岸線の海の深さは一〇〇メートルもあろうかと思われる程黒潮で船を着ける箇所がなく大正十年頃古賀善次さんが鰹製造業を経営していた工場の跡付近に僅かばかりの砂浜が見られ、船を着けることは困難で危 険な所である。然しながら小舟は着けるととが出来ます。 魚釣島の標柱と磯争中遭難者の慰霊碑を第二住吉丸より小舟に積みかえ標住と慰霊碑を建立致しました。」
とある。

<建立時の新聞記事:「疎開船漂着後80人死亡、「尖閣の慰霊碑」建立」(琉球新報 2002年7月10日)>
http://ryukyushimpo.jp/news/prentry-102133.html

【石垣】第二次世界大戦中、疎開船が爆撃され尖閣諸島に漂着した際に亡くなった多数の死没者の遺族や関係者が、このほど石垣市新川に「尖閣列島戦時遭難死没者慰霊之碑」を建立し、5日、碑の除幕式と慰霊祭を行った。 県内外から遺族が出席し、あらためて亡くなった家族のめい福を祈るとともに、恒久平和を誓い合った。遺族会などによると、戦争末期の1944年7月、石垣島から台湾への疎開船2隻が米軍の爆撃を受け、1隻は炎上沈没した。残り1隻でなんとか尖閣諸島魚釣島に漂着し集団生活を送ったが、食糧がなくなり餓死者も出た。

この遭難で約80人が亡くなり碑に刻銘されている。石垣市は69年に魚釣島に慰霊碑を建立した。遺族も現地での慰霊祭を望んだが、遠隔地で領土問題も絡み、これまで慰霊祭は石垣島内に仮の慰霊柱を立てて行ってきた。慰霊祭で遺族を代表してあいさつに立った黒澤淳子さんは、当時12歳で、祖母と母、妹と弟の4人を亡くした。「もって行き場のない悔しさ、悲しさ、どうにもならない憤りは忘れられない。一連の事件を後世に伝え、世界平和に寄与する一助となると信じる」と思いを話した。

■コメント欄より(重要な情報ですので本文に転載いたします。)

<建立時の新聞記事:「疎開船漂着後80人死亡、「尖閣の慰霊碑」建立」(琉球新報 2002年7月10日)>
◆この引用された記事が間違っていないならば、大変なごまかしと、事実誤認があります。
事件が起きたのは終戦間際の『沖縄戦』の組織的抵抗が終焉した『昭和20年7月』の事であり、『1944年=昭和19年』の事ではありません。また、使用された船は日本陸軍独歩二九九大隊の長川小太郎少尉を長とする決死水軍隊を結成して沈没船を引き上げて運行可能な気帆船を組み立てたものです。
船の名前は「第一千早丸」「第三千早丸」「第五千早丸」の3隻でした。これらが、軍籍にあったことは別に隠す必要はありません。むしろ隠すのはみっともない行為です。不幸にも米軍に察知されて攻撃をうけましたが、沖縄本島との交通路が途絶した当時にあってこのような手段で台湾との航路を開拓していた先人の偉業には頭が下がります。
もし御存命ならば、長川小太郎少尉ら帝国陸軍独立混成第四十四旅団の関係者の方々にも御参列いただきたいものであります。