【八重山日報連載記事】■祖国復帰の先導者大濱信泉 〜佐藤栄作総理大臣の沖縄返還交渉のブレイン〜(第6回)

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■「沖縄軍事基地問題研究会」

 佐藤首相の了承を得た大濱は、沖縄問題等懇談会の了解を得て、「沖縄軍事基地問題研究会」を設立しました。沖縄問題等懇談会の座長大濱の諮問機関という位置づけです。その座長は、久住忠男(軍事評論家)、14名の委員は、若泉敬(京都産業大教授)、高坂正堯(京大教授)など純民間組織の軍事問題、国際政治に関する一流のメンバーで構成し、末次一郎(南方同胞援護会評議員)が事務局長をつとめました。自由に発言でき、かつ最も権威のある研究団体の布陣を敷いて出発したのです。

昭和43年2月17日、第一回の会合が開かれ、1970年代の国際情勢を踏まえて極東の和平と日本の安全確保の視点から沖縄の基地のあるべき態様を熱烈、真摯に論議されました。研究会は22回に及び昭和44年3月8日に最終報告書がまとめられ、翌日の各新聞には、「沖縄基地問題研究会・報告」という民間有志の研究のよってまとめられた沖縄返還交渉への提言が一斉に大きく取り上げられました。 要旨は次のとおりです。

  • 沖縄の施政権返還は遅くても1972年までになされる。
  • 施政権返還後は日米安保条約を適用し、同時に同条約に基づく日米地位協定、事前協議も全面的に適用する。
  • 沖縄の米軍基地は過密で、かつ住民地域と入り組んでいるので、変換前にもできるだけ基地の整理東郷を進める。返還後は沖縄に対する防衛の責任は第一次的に我が国が負い、陸上防衛、沿岸警備、局地防空を担当する。よってこれに関する基地の移管計画を急ぐ必要がある。
  • 返還をスムーズにするため日米合同の協議機関を求める。

 これは、現実を直視した極めて説得力のある議決です。翌日の参議院では野党議員がこの報告書を取り上げ、佐藤を追求しましたが、「この報告書はかねて私が考えてきたことと同じ」という趣旨の答弁をしたのです。この研究会の発表により、日本の世論の大勢は決定され、政府もこの論調を基調として対米交渉を開始したのです。

■日米京都会議

 沖縄基地問題研究会はもう一つ大きなミッションを追っていました。「沖縄およびアジアに関する日米京都会議」の開催です。この会議は昭和44年1月28日から31日までの4日間、国立京都国際会館を会場として開催されました。アメリカからはライシャワー教授など政府の政策決定に少なからぬ影響を持つ9名の代表が参加しました。日本側は基地問題研究会のメンバーに加えて、猪木正道(京大教授)、と自衛官の幕僚長クラス経験者など9名、そして沖縄から喜屋武真栄(沖縄教職委員会会長)等4名が参加しました。大濱はこの会議の実行委員長として会議実現に尽くし、末次一郎が事務局長として運営にあたりました。

 会議は、終わりにあたって議長報告が採択されました。議長は竹内前駐米大使とライシャワー前駐日大使です。その中で沖縄返還の時期については、「返還に関するとりきめは1969年中に到達されるべきというのが広範な確信であった。」と記され、返還後の基地のあり方については、「沖縄の基地を即時に日本本土と同じ制約下におくことが望ましいことにつき、おおよその意見の一致をみたが、そうすることはアメリカの諸方面で強い反対がでてくるであろうという指摘がなされた。沖縄返還問題の処理は、こうした事情を考慮にいれた、実現可能なもので無くてはならない。」と記されていました。

 沖縄問題に対する完全な一致を見出すことがこの会議の目的ではありませんでした。しかし、対立して白熱する議論もありましたが、こうして日米間の相互理解が深められたのです。

 この会議の終わりに、大濱はめずらしく感情を込めた挨拶しました。会議の成功に感謝を述べ、「沖縄問題の解決」と「日米友好関係の維持」に会議の参加者全てが深い協力を続けていきたいと訴えたのです。

閉会後、アメリカ側の参加者がそれぞれの立場で政府や世論に対して積極的な働きかけをしてくれたことが、その後のスムーズな沖縄返還交渉を実現させたのです。

■ついに実現した沖縄県祖国復帰

前号で述べた、日米京都会議から半年後、昭和44年6月から7月にかけて、大浜は、「沖縄の核抜き本土並みの基地返還」を望む日本の世論に対する米国の反応を探るため、米政府関係者と意見交換を行いました。帰国後、佐藤首相に「国際情勢からみて、日本政府の望む方向に解決されるのではないか。今後は沖縄開発に重点を置くべき」と進言しました。続いて、11月21日、佐藤・ニクソン会談が行われ、共同声明で、「沖縄の1972年、核抜き、本土並み返還」の合意が発表されたのです。日米間で沖縄返還が正式に決まった瞬間です。それから、約1年半後の昭和46年6月17日、ついに日米間で沖縄返還協定が調印されました。

昭和46年10月16日、第67回臨時国会、いわゆる沖縄国会が招集されました。「核抜き、本土並み」を条件とした沖縄返還協定の批准をめぐって、与野党間で激しい議論が展開されましたが、紆余曲折の波乱の末、沖縄返還協定特別委員会で11月17日、衆議院本会議で11月24日、参議院で12月22日に批准の承認が行われました。沖縄県の祖国復帰に全力を注いできた大浜の悲願がついに現実のものとなったのです。

参議院で沖縄返還協定の批准がなされたその日の深夜、大浜は国会議事堂に佐藤総理大臣を訪ねました。それは、ともに沖縄問題に取り組み苦労してきた間柄だけに、総理に謝意を表したいという思いからです。大浜は議事堂内で慌ただしい総理をみつけると「連日のご活躍、そして本日の批准承認ご苦労様でした。いろいろ配慮をいただきありがとうございました。」と述べました。総理は「いや、めでたく実現できたのも先生のおかげです。お礼はかえって私の方から申し上げるべきです。」と感無量の面持ちで二人は固い握手を交わしたのです。別れ際に、総理は大浜を呼び止め「先生、ところで海洋博の会長を是非お願いしますよ。田中くん(通産大臣田中角栄)にも話しておきますから。」と声をかけました。突然の依頼に即答する余裕もなく、大濱はその場を離れたのです。(続く)

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