自称:沖縄対策本部長■日本再建の必須知識:沖縄返還外交史+沖縄工作史

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■最も植民地になる危機が高い沖縄県が最も平和ボケをしているという謎

数年前、私は日本は植民地化の危機に追い込まれている事に気がつきました。

「急いで憲法9条を改正して自衛隊がとにかく戦えるようにしなければならない」「中国から沖縄を守るためには、自衛隊を八重山にも配備しなければならない」

と思ったのですが、日本の安全保障の強化を妨害する勢力は沖縄にある事に気がつきました。

憲法9条を守る声も自衛隊配備に反対する声も沖縄が最も強いのです。

全国で最も植民地になる危機が高い沖縄県が全国で最も平和ボケをしているという大きな矛盾につきあたりました。

この謎を解き明かさなければ、日本を守る戦いを進める事は不可能なのです。本当に不思議でたまりませんでした。

■沖縄が平和ボケしているのは、最も狙われているから

ところが、ある時に、沖縄の祖国復帰運動は安保闘争だったという事に気がつきました。

祖国復帰の組織運動は、祖国復帰を純粋に願った人が始めたわけではなく、日米安保を破棄させ日本を共産革命させたい人が裏で糸を引いていたことが見えてきたのです。

彼らは、沖縄県民の祖国復帰への純粋な思いをうまく利用し、当時の東アジアの軍事情勢を完全に無視して、「米軍基地撤去」、「日米安保破棄」こそ平和への道だと騙し、「日米安保破棄」の運動へとうまく扇動したのです。万一、その時の沖縄県民の願いが実現し、本当に米軍基地が沖縄から撤去したり、日米安保が破棄されていたなら、1970年代以降の日本の平和も反映もなかったのです。つまり、敗戦後の日本で地政学的に最も重要で、最も弱い沖縄が様々な工作を集中的に受けていたという事です。沖縄県民が最も平和ボケしているのは、最も狙われているからであり、矛盾でも何でもない事に気がついたのです。

■東アジアの軍事情勢激変のまっただ中で行われた沖縄施政権返還

沖縄の復帰運動は1960年代前半から活性化し後半にはピークを迎えます。それはちょうどベトナム戦争の時期と重なります。

ベトナム戦争の終結は沖縄返還から3年後の1975年ですので、沖縄返還は沖縄の米軍基地がベトナムへの出撃基地として利用されているまっただ中で行われたのです。これは本当に不思議な事です。

そして、注目すべきは、1970年から72年の間には中国を中心に東アジア情勢地図が大きく変化した事です。

沖縄返還前後に起きた東アジア情勢地図を書き換えたような出来事には以下のようなものがあります。

(1) 米軍のベトナムからの撤退(1969年~1973年)

(2) 中国の戦略核保有国化(1970年4月23日) ※初の人工衛星打ち上げ成功

(3) 日米安保条約自動延長(1970年6月23日)

(4) 国連代表権の中華民国から中華人民共和国への移動(1971年10月24日)

(5) ニクソン大統領の電撃訪中(1972年2月21日)

(6) 日中共同声明(1972年9月29日) ※日本は中華人民共和国と国交を樹立し、中華民国と国交断絶沖縄返還日米外交史

これらの国際情勢の大変化と沖縄返還は無関係なわけがありません。

民主党政権になってから沖縄返還時の核密約問題が取り上げられますが、その前に、その時の国際情勢をよく見るべきです。

沖縄返還は、日米だけの外交ではなく、中国の核ミサイルが問題になっていたはずです。また、沖縄の主権を主張していたのは、中華人民共和国だけではなく、中華民国も主張していました。

つまり、沖縄返還は、「日本」、「米国」、「中華民国」、「中華人民共和国」が関係した複雑な外交問題だったわけです。

■毛沢東が強く支持していた、安保闘争と沖縄返還闘争

もうひとつ、外交史には残っていない、沖縄返還と中国の関係があります。

1964年1月27日の人民日報で、毛沢東は、日本の安保闘争と沖縄返還運動を強く支持する趣旨のメッセージを発表しています。

この時に、毛沢東は前日に横田基地で行われていた反米集会の内容を細かく述べており、日本の安保闘争組織との太いパイプがあった事を伺わせます。

この毛沢東の発言は、安保闘争と沖縄返還運動には、中国共産党の指示があったものだと思わせる証拠です。

<日本語訳:「人民日報:中国人民は固く日本人民の偉大なる愛国闘争を支持する」(毛沢東)>

日本の人々が1月26日に開催した大反米デモは、偉大なる愛国運動である。中国人民を代表して日本の英雄の皆様に敬意を表明します。

最近、日本では、米国に対して大規模な大衆運動を開始し、米国のF105D型核搭載戦闘機と原子力潜水艦の日本駐留反対、すべての米軍基地の撤去要求と米軍武装部隊の撤退の要求、日本の領土沖縄の返還要求、日米”安全保障条約”の廃止、等々。

すべてこれは日本人民の意思と願望を反映している。中国人民は心から日本の正義の戦いを支援します。

■沖縄返還の外交の真実(私見)

これらの事実を受け入れると、沖縄返還時の外交は非常に複雑怪奇なものに見えてきます。

おそらく、真実を知っているのは中国共産党のみだと思いますが、現時点での自分の私見を列挙してみました。

<沖縄返還の外交の真実(私見)>

(1)佐藤総理は、中国が糸を引いていた「安保闘争」と「日米安保破棄を条件にした沖縄返還」の怒号の中、日米安保の継続と沖縄返還の両立を目指して、米国との交渉に命をかけていた。

(2)ニクソン大統領は、ベトナム戦争からの撤退を至上命題にしながら、核兵器保有国になり、北ベトナムの支援国でもある中国と国交正常化を図るため、沖縄返還を中国へメッセージを送るひとつのカードとして利用していた。(日本の非核三原則を沖縄にても受け入れる事を示し、中国への敵対意思の無いメッセージを送った)

(3)中国は、米国の核の脅しに屈しない国づくりを目指しながら核ミサイルの開発に国の総力をあげる一方、日本には安保闘争、沖縄返還の政治工作を行い日米同盟の軍事力の弱体化を図った。

その結果、
・日米安保条約を破棄させることには失敗したが、日本の核兵器保有国化阻止には成功した。
・沖縄返還闘争で日米安保を破棄させる事には失敗したが、沖縄返還には成功し、沖縄が米軍の恒常的基地になる事を阻止した。
・反戦、反米活動をする工作組織を日本につくり上げることに成功した。

■日本再建の必須知識:沖縄返還外交史+沖縄工作史

このように見ていくと、日本の弱体化は沖縄返還の時の外交・内政の失敗に負う所が大きいと感じてくるのです。

佐藤総理大臣は「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとつて『戦後』は終わらない」と述べ、沖縄祖国復帰の実現を果たしましたが、安保闘争や沖縄返還闘争の影響を強く残してしまったが故に、日本は自主防衛すら実現することができず、主権国家として回復を果たすことが出来ませんでした。

そのような意味から、沖縄返還時の歴史を振り返り、何を成功して、何を失敗したのかを学ぶことは日本の再建に必要だと思うのです。

特に、沖縄問題は現在にいたっても単なる国内問題ではなく、返還交渉の時と同じように、米国、中華人民共和国、中華民国との外交が絡んでいます。

沖縄返還交渉の時と同じように、米国だけを見るのではなく、米国と中国の関係、そして中国が裏から行なってくる政治工作なども見抜きながら対処していかなければ、日本の再建を果たすことはできないと思います。

悲しい現実ですが、沖縄復帰運動や沖縄返還交渉に詳しいのは、左翼活動家であり、中国共産党の人たちです。

保守活動家は復帰運動に関しては当事者がいなかったため、この歴史を詳しく知る人はまずいないと思います。

この時点で既に体制的には左翼組織に負けてしまっています。

日本再建のためには、沖縄返還の外交史と左翼の活動史、中国の工作史を知る事が必要です。何故なら、それらの知識を持つことにより、左翼の打つ手を見抜き、中国が突然言い出す国際条約理論などに騙されずに済むからです。

自分の学習も兼ねて、まずは外交史について、まとめていきたいと思います。

下記に外交史の年表を記載いたしました。

それらの出来事について、復帰運動がどのように行われていったのか、ひとつひとつブログにまとめていきたいと思います。

(仲村 覚)


■沖縄返還外交史年表

1962年2月1日    施政権返還に関する琉球立法院決議および日本政府見解

1962年3月9日   沖縄及び小笠原諸島における施政権回復に関する衆議院決議

1965年1月13日  佐藤栄作総理とジョンソン大統領の共同声明

1965年8月19日  佐藤栄作内閣総理大臣の沖縄訪問に際してのステートメント

1965年12月20日 琉球列島の管理に関する行政命令再改正のジョンソン大統領の行政命令

1967年11月4日 佐藤総理大臣訪米に際し沖縄の施政権返還を要求する決議案

1967年11月15日 佐藤栄作総理とジョンソン大統領の共同コミュニケ

1968年1月31日 琉球政府主席公選に関する行政命令改正のジョンソン大統領の行政命令

1969年11月21日 佐藤栄作総理とニクソン大統領の共同声明

1969年11月21日 沖縄百万同胞に贈ることば(佐藤内閣総理大臣)

1969年11月22日 沖縄返還に関する屋良朝苗琉球政府主席声明

1971年6月17日 沖縄返還協定調印

1972年1月7日 佐藤栄作総理とニクソン大統領の共同発表

1972年5月15日 沖縄県施政権返還

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