自称:沖縄対策本部長■【安藤慶太が斬る】法治国家に挑戦する竹富町は独立すれば?

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■【安藤慶太が斬る】法治国家に挑戦する竹富町は独立すれば?

(産経新聞 2011.10.2 07:00 )

http://sankei.jp.msn.com/life/news/111002/edc11100207000001-n6.htm

沖縄県八重山採択地区の教科書採択の問題を取り上げるのはこれで3度目だ。事の発端は、石垣市、竹富町、与那国町から成る八重山採択地区協議会が来年度からの中学公民教科書について育鵬社を採択した。これを踏まえて石垣市と与那国町教委は育鵬社を採択教科書と正式決定したのだが、竹富町のみが、採択地区協議会とは別の教科書を選んだことに始まる。

採択地区では同じ教科書を使うという無償措置法の規定に反する状態が生まれたため沖縄県教委が指導に乗り出すのだが、この沖縄県教委の指導なるものが、むちゃくちゃなものだった。突然、3市町の全教育委員による「新たな協議の場」が設けられた。

3市町教委のうち石垣市と与那国町の教委は拮抗(きっこう)しながらも育鵬社に賛成する教育委員が過半数を占めていた。各市町から2人ずつ出席した採択地区協議会(さらに外部からも2人加わり、計8人)でも育鵬社は多数派を占めるのだが、竹富町は5人の教育委員全員が育鵬社に反対していた。教育委員全員が集まって全員で採決を取れば、育鵬社採択が覆ってしまうというわけである。

「新たな協議の場」というのは相当に横暴な議事運営だった。第一、採択地区協議会はすでに結論を出していた。突如持ち出された「新たな協議の場」というものが一体どのような協議体なのか。採択地区協議会に代わる協議体とするのであれば、当然それなりの合意形成や準備手続きが必要なはずだが、それすらも委員全員の採決で押し切られ、逆転不採択とされてしまったのだった。

逆転不採択劇は直ちに問題となった。法的に無効と国が判断したため、ことなきを得たのだが、メンツ丸つぶれの県教委はじめ、育鵬社採択を快く思わない連中は依然、収まりがつかないようである。

■信じられない県教委

現状では育鵬社を採択するよう決めた、はじめの採択地区協議会のみが法的に有効になっている。これを軸にした一本化が図られるべき状況のまま、時間が推移している。沖縄県教委も地元メディアのバッシングを恐れてか、それとも確信犯か、本来、なすべき育鵬社での一本化に向けて動く素振りも見せない。それどころか県議会では次のような答弁が出てきたのだそうだ。

《沖縄県八重山地区の公民教科書採択問題で、大城浩沖縄県教育長は28日の県議会で、「つくる会」系の育鵬社版を不採択とした石垣、与那国、竹富の3市町教育委員13人の全員協議(8日)は、「有効」との立場を改めて表明しました。野田内閣が27日に「全員協議は教科書無償措置法に規定された協議には当たらない」などと「手続きは無効」との答弁書を閣議決定した問題でも、「最終的な決定は八重山の当事者にある」としました》(しんぶん赤旗)

■合意などないじゃないか

文中にある「教育委員13人の全員協議(8日)」というのが育鵬社採択を覆した横暴採決の舞台である。普段、「民主的」な物事にこだわりを持つ赤旗サンにしてはずいぶん非民主的な出来事に肩入れした、人心を惑わす記事だと私は思うが、それはともかく、何より問題なのは県教委である。9月8日の全員協議が法的に無効である、と国が判断、県教委にそれを伝えても全くと言っていいほど聞き入れていないからである。一体、沖縄県教委は何を考えているのだろう。行政機関としてはもはや暴走状態となっているのだ。

繰り返しになるが全員協議が有効であるためには当事者である石垣市、与那国町、竹富町の3市町がそれぞれの教委で、この全員協議を法令に基づく採択教科書一本化の場としましょうと議決をしなければならない。そのことに合意することが大前提なのだ。規約を作って、その規約に基づく運営もしなければならないのだが、「新たな協議の場」にはそうした規約すらなかったのである。

■愚かしい光景

これではたまたま教育委員全員が酒場に集まって懇親を深めていたら、酒席の議題が来年度の中学校の公民教科書をどれにするか、という話題になった、それで決を採ったら、育鵬社は否決された、といった類の話に等しい。何ら正当性がないのはもちろんだが、こんな場で、教育政策が決められるのはおかしな話でもある。付け加えると、いまなお「新たな協議の場」に正当性があると言い張る県教委も行政機関としてかなり恥ずかしい。そういうことを自覚してほしいものである。

そもそも正当性を言い張っている県教委だが、彼らは当事者でも何でもない部外者なのである。当事者はあくまで、3市町教委である。県教委はあくまで指導、助言、援助ができるオブザーバーに過ぎず、当事者ではない。肝心の当事者がこの場を無効だと言っているのに、オブザーバーが「有効だ」「有効だ」と県議会で言い張るこの滑稽さ、それに気づかない県議会。自治も何もあったものではない愚かしい光景に映る。

■法的拘束力を否定する愚

沖縄県教委はこうもいう。

「(育鵬社を採択した8月の)協議会の答申に法的拘束力はない」

なるほど無償措置法には同一採択地区での教科書は協議の上、同一にしなければならない、とは書かれているが、採択地区協議会で協議せよ、とまでは書かれてはいない。従って、どこで採択地区内の教科書を一本化するか、採択地区協議会だけにその資格があるとはかぎらないという解釈が生まれうる。どこか採択地区協議会とは別の場所で3市町教委が合意すれば、一本化は可能でしょう、だから採択地区協議会の答申に縛られなくてもいいでしょうという論理は論理として成立しうる。私もこの同一教科書の採択のための場を採択地区協議会ときちんと位置づける法文の書きぶりが重要だったと今さらながら、痛感している。

■何のための協議会か

ただ、沖縄県教委の物言いには断固問題ありだと指摘しておく。仮に法文で採択地区協議会で一本化せよという文言がなくとも、採択地区協議会はこの法文を根拠法令にして一本化に向けて設置、存在している法に基づく協議体であることは紛れもない事実だからである。その協議の場には竹富町だって参加していたのだ。異論、反論、再反論と協議の末、そこでひとつの結論を導き出したのであって、そこに法的な瑕疵(かし)はないのである。

採択地区協議会の答申に法的拘束力はない、などとあっけらかんと片づけてしまう沖縄県教委の感覚が信じられないくらいおかしいのである。これは重みのある決定なのである。それをこうも簡単に「答申は答申。法的拘束力などはありません」と言いはなってしまうと、何のための採択地区協議会なのか、となってしまう。採択地区協議会の決定をいとも簡単に葬り去ることが可能になれば、まさしく何でもアリに今後なってくるだろう。制度は崩壊である。

むしろ、県教委の物言いからは採択地区協議会の結論が育鵬社だったからそれを覆しても世論の理解は得られるという、とんでもない勘違いが前提にあるのではないか、とすら感じている。育鵬社採択阻止を掲げる運動団体を後押しするために、行政判断や、法令解釈まで曲げても憚(はばか)らない恐ろしさを感じるのである。

■法の不備について

そもそもの混乱の底流には教科書採択の権限を市町村教委にあるとした地方教育行政法と同一採択地区の採択を統一しなければならないと定めた教科書無償措置法の規定の不備にあるという見方がある。私も基本的にその意見に異論はない。採択地区のなかで一本化が図られない事態をどう収拾するか。県教委が指導、助言、援助すると法令には定めてはあるのだが、具体的な取り決めは書かれていないのだ。ムラ社会的な、なれ合い調整でまとまるという前提で作られていて、今回のようないわば保革激突の原理主義的な衝突で両者一歩も引かないという事態を想定してはこなかったのである。

■二つの法律を守れ

だが、だからといって日本国に属する地方自治体である以上、法令はあまねく守る義務はある。不備な法律なら守る必要はないということにはならないはずである。

一本化に向けて3市町の合意を備えた協議というのは、はじめの採択地区協議会以外、存在しない。そして、そこでの結論のみが現状では有効と判断できること、今後、新たな協議の場を再び急ごしらえしても、3市町の合意が得られるとは現実的に思えないこと、などを考えると、採択地区協議会の結論に沿って育鵬社で一本化を図るのが筋であり、違法状態を生み出した竹富町を指導する以外に道はないのである。

なるほど、採択権は地方教育行政法で市町村教委に与えられている。竹富町のいうのもその点では間違ってはいない。だが、だからといって無償措置法に違反することは許されないのである。教科書採択に当たっては、まず無償措置法に従って設置した採択地区協議会が同一教科書の採用を決定し、この決定に基づいて、各市町村教委は教科書採択権を行使しなければならない。これが二つの法律の自然かつ正しい解釈であって、これ以外にないのである。

■アラカルトの法令遵守は認められない

それでも竹富町がどうしても育鵬社教科書は嫌だ、採択をしたくないというなら選択肢はある。今からでも、日本国から独立して竹富人民民主主義共和国なり、竹富王国でも作ればそれは可能である。そうすれば、日本国の法令など守らなくて済むし、教科書採択の法令に縛られることから間違いなく解放されるだろう。それどころか、教科書も自前で作れるし、作らねばならなくなるのだ。道路建設から医療、福祉、農政から産業政策だって自分達の手で作り、維持管理することだって可能で、国防だって自前で考えていく自由を手にできる。

しかし、どう考えてもそれは現実的ではない。現状、日本国に属していることで竹富町はさまざまな恩恵を日本国から受けて成り立っているはずだからだ。ならば日本の法令があまたあるなかで「この法律だけは守りません」などという話が自治体として通るわけはない。それを許してしまえば、法治国家など成り立たないのである。竹富町がやっていることは法治国家に対する重大な挑戦なのであって、政府が「(全員協議による)手続きは無効」と閣議決定してなお平気で「最終的な決定は八重山の当事者にある」とする県教委の言いぐさは日本の行政機関としては信じられない事態だと指摘しておきたいのである。

さすがの文科省も無償措置法が違反となったままで、教科書無償配布が認められるのか、法的な検討を始めたようである。無償措置法に違反したまま、国に報告があがった場合、国はその違法を容認するのか。それが許されるのか。許されなければ何ができるのか。採択権は市町村教委に確かにある。だが、無償配布するか否かの権能は国にあるのだ。無責任な県教委と違法を憚らない竹富町を前に前代未聞の法的検討を余儀なくされているのである。

もし竹富町の違法を国が安易に容認するとどうなるだろうか。物事を真面目に考えない民主党政権だけに、あらかじめクギを刺しておくが、それは採択制度の瓦解(がかい)が必ず代償としてついてくる。

実は民主党の支持母体、日教組はその日を待っているのかもしれないことも一応指摘しておく。彼らは学校で、児童生徒や保護者、教職員が採択に関わり、自分たちの教科書は自分たちで選ぶべきだという考えだ。日教組教師のドグマや政治的スタンス、組合教育にかなった教科書が横行、教育はますますおかしな方向に流れるだろうと危惧も表明しておく。

■中川文科相の発言の不用意さ

ところで、本件がそういう重大な意味を持っていることを中川正春文科相は本当に分かっているのだろうか?

9月28日の参議院予算委員会で世耕弘成議員(自民)が採択地区協議会の結論と無効となった全員協議の結論について「どっちが正しいのかはっきり判断を示すべきじゃないですか」と所見をただしたところ、中川文科相は「どちらが正しいかというよりも、どちらもコンセンサスに至っていないということ、そういう解釈をしています」と採択地区協議会の結論にまで否定的に答えたのだった。

世耕議員はさらに、森ゆうこ文科副大臣に質問を続ける。

世耕議員「森ゆうこ副大臣は立派なことを記者会見でおっしゃっている。8月23日のこの協議会が正しい我々が認める答申だというふうにお答えになっている」

森副大臣 「8月23日の答申だけが正しいと申し上げたわけではありません。23日の答申については合意は見られているというふうに私は思っておりますけれども、9月8日、改めて沖縄県教育委員会の指導に基づいて行われました全教育委員による協議の場というものについては、その後、各教育長から抗議のといいますか、これは協議に至っていないという文書が我々のところに届けられましたので、その後また反論のペーパーもいろいろ来ておりまして、そういう意味で、その地区においての協議がこの9月8日についてはまだ認められていないという段階でございます」

世耕議員 「残念ですね。副大臣になるとやっぱり歯切れが悪くなっちゃう」

■お前は当事者だろう!

中川文科相はあたかも8月23日の採択地区協議会での結論の有効性を葬るかのような発言だった。森副大臣の発言の冒頭、「8月23日の答申だけが正しいと申し上げたわけではありません」という部分には理解に苦しむところがある(将来的に、3市町が円満に合意できる新たな協議の場ができるとは到底思えないからだ)。だが、後段の発言は「中川発言」をフォロー、アシストしつつも丁寧に軌道修正を図っているように聞こえた。

いずれにしても大臣の発言はけんか両成敗のごとく、双方に公平な発言ではあるのかもしれないが、当事者意識に欠けているといわざるを得ない。文科省では9月23日の答申のみが現状では有効で、これに基づいて一本化を図るよう、すでに通知を流している。文科省は正しく解決を図る一当事者なのである。その自覚を持ってほしいものである。国としてやれることは通知だけではないはずで、まだまだ法律を駆使してやれることが残っているはずである。

大臣発言後、文科省ではいささかもこの方針(8月23日の採択地区協議会のみが現状では有効で、これに基づいて一本化が図られるべきだという方針)に変わりがないと強調してはいるが、沖縄メディアは採択地区協議会の有効性が否定されたとすでに大はしゃぎである。これでは収拾のつかない事態に発展する様相を大臣自らが招いた形になっており、“中川発言”は実に罪深いと言わざるを得ない。

■法律の不備を叩くだけでいいのか

さきほど、地方教育行政法と無償措置法の規定には不備があることを述べたが、検定から採択に至るまでの一貫した流れを定めた教科書法自体がわが国にはないのである。教科書法制定の動きが今まで全くなかったわけではない。自民党政権下で教科書法の提案がなされたことはかつてあったのだ。当時目指した教科書採択は全県一区で、日教組教師が指定する教科書を学校で採用するというそれまでの仕組みを変え、まともな教科書を子供たちに渡す狙いのもと、国会に提案されたのだった。

ところが教科書法は日教組による激しい反対運動にさらされた。社会党がまだ元気なころでもあり、55年体制のもとで、廃案となりお蔵入りとなってしまうという流れをたどったのだった。

しかし、教科書法が流れても、法文にある検定や採択などの細部に関する取り決めは依然必要だった。そこで教科書採択は地方教育行政法や、無償措置法に分散して規定を置くことになった。間借りのようなものであるが、玉虫色というか中途半端な決着でお茶を濁したという見方も可能だ。

八重山の採択の混乱に乗じて多くのメディアは今、地方教育行政法と無償措置法の規定の不備を盛んに叩(たた)いている。私自身も不備のある規定だとは思うが一点、この問題は日教組がもたらした弊害でもある点を指摘しておかねばならないと思う。不備をとことん正すのであれば、教科書法を制定すべきかどうかまで遡らなければ不徹底だとも思う。

今日の状況は自民党と社会党が表向き対立、裏では手を結ぶという55年体制のなかで、双方が既得権を守るという戦後レジームの産物であって、採択制度が存在しても、組合や教師が影響力を残している今日の状況に続いている。せっかく教科書採択の不備を正すのであれば徹底的、抜本的に見直されなければならないと思う次第である。

(安藤慶太・社会部編集委員)