沖縄対策本部長■アヘン戦争後、西洋列強の植民地化の危機にあった琉球(中編)

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■ペリーの来琉1回目>大統領の国書伝達式>ペリーの来琉2回目

1855年の琉仏修好条約の締結から2年遡る1853年5月26日、アメリカ合衆国海軍のペリー提督が蒸気軍艦4隻を率いて来琉しました1853年6月9日に琉球を出航すると江戸に向かうのではなく小笠原諸島の調査に向かったのでした。

その理由は小笠原も将来の補給基地となると考えたからです。ペリーは父島に貯炭地を建設したり牛、羊、山羊などを繁殖のために陸揚げし6月23日に一旦琉球に戻り7月2日に江戸に向けて那覇を出航します。

<首里城を訪問するペリー(ペルリ提督琉球訪問記)>

<ペリー上陸の地記念碑(那覇市泊の外人墓地内)>

そして7月8日に浦賀に到着し7月14日に久里浜で大統領の国書伝達式を行います。(9)

来年再び渡来することを明言し17日に江戸を離れます。

その後ペリーは7月28日に再び琉球に来航します。

ペリーは琉球王府へ「聖現寺の有料賃借」「石炭貯蔵庫を建設」「密偵の禁止」「市場での購入」を要求し、琉球の総理官が拒否すると、「明日までに満足できる返事が出来なければ200人の兵で首里城を占領する」と脅し強引に要求を受け入れさせました。

ペリーは8月1日に琉球を離れて香港へ向かいました。(10)

このようにペリーは琉球を日本開国の拠点として活用していたのでした。

現在、米軍は沖縄の事を「太平洋の要石」と表現して戦略的拠点とされていますが、約160年前のこの時から沖縄とアメリカとのこのような関係は始まっていたといえます。

■日本が開国を拒否した場合、琉球占領を考えていたペリー

アメリカはペリーを日本に派遣する5年前にメキシコ戦争に勝利しカリフォルニア州を獲得し太平洋への進出が可能となっていました。

アメリカ大統領はこのメキシコ戦争で名声を得たペリー提督を特命全権公使として日本に派遣し、日本の開国を図ることを決定したのでした。

ペリーは浦賀に来る前年ケネディー海軍長官に次のような書簡を送っています。

「日本国政府がもし日本本土の港湾解放を頑強に拒絶し、そのために流血の惨をみる危険があるときは、別に日本の南部地方において良港であって薪水補給基地に便利な島嶼に艦隊錨地をしてしたいと思う。」

「このためには琉球諸島が最も便利である。」

「同諸島は日本国諸侯中最も有力な薩摩侯の領土であるが、清国政府は同島の主権に監視意義をとなえている。」

「残忍な薩摩候は強大な権力でもってこれを圧服し、同島住民は常に虐政のもとで呻吟している実情である。」

「もし同諸島を占領し、住民を圧政から解放するならば、それは道徳上から見ても正当なことである。」

「本官に同島を占領せしめるならば、住民の生活は大いに改善され、住民はこぞって合衆国市民を歓迎するに違いない。」(11)

このようにペリーは琉球の占領も考えていたのです。

これに対して米政府は

「大統領もまた遠征艦隊の安全を確保するために、好都合な一、二港を獲得する必要があり琉球諸島がその目的にもっとも適合することを認められた」(12)

と回答しています。

■ペリーの来琉3回目

1854年1月14日、ペリー提督は5隻の艦隊で香港を出発し24日に全艦那覇に終結しました。彼は再び江戸の出発するに先立ち1月25日に海軍長官に次のように上申しています。

「日本政府が合衆国の要求に応じないか、または合衆国商船及び捕鯨船に避泊する湾港を指定することを拒絶するならば、本職は合衆国市民の蒙った侮辱及び損害に対する補償として、日本帝国の附庸国である琉球島を合衆国の旗の監視下に置き、政府が本職の行動を承認するかどうかを決定するまで、上述の制限内で租借する決心である。」(13)

2月7日、ペリーは那覇で合流した2隻を加えて7隻で江戸に向かって出航しました。(14)

この時、琉球の運命は江戸幕府がペリーの開国要求を受諾するか、拒絶をするかにかかっていたのです。

しかし、その計画はペリーの胸の中だけに存在しているため、琉球国の住民は自分たちがまさか国家存亡の危機の中にあるという事を知る由もありませんでした。

■日米和親条約締結

2月13日午後2時、ペリー艦隊は浦賀沖に到着しました。(14)

ペリーはアメリカの要求が拒否されるならば直ちに戦争に訴える用意があると幕府を威圧しました。

ペリーの強硬な態度と黒船の威容に恐れをなした幕府側は、国書で求められている、石炭、食料の補給、難破民保護の2つの要求は認めるが通商は拒否するという態度を固め、ペリーも一歩譲って日本の通商拒否を理解しました。

そして、4回にわたる交渉の末、ついに3月31日、全12条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)の調印が行われました。

下田、箱館(函館)両港の開港、漂流民の救助、引渡し、アメリカ船への薪水・食料・石炭の供給、下田への領事駐在、などが主な内容でした。日本が列強のいずれかの国との抗争に巻き込まれたならば、アメリカが援助することも約束しました。 (15)

<ペリー下田上陸之図>

この条約の締結によりペリーの琉球占領は幻に終わりました。

もし、この時に幕府が強行に拒絶したなら沖縄はハワイのようなアメリカの植民地になり、明治維新も実現していたかどうかもわかりません。

この条約締結の交渉にてペリーは琉球の開港についても要求していましたが幕府は権限が無いと回答していました。(16)

■ペリーの来琉3回目:琉米修好条約締結

下田で日米和親条約を締結したペリーの仕事は残すところ、琉球との修好条約の締結だけとなりました。7月1日ペリーは再び来琉。7月7日に条約締結にむけて本格的な交渉を始め、7月11日(6月17日)にマシュー・ペリー提督と尚宏勲らが調印、漢文(琉球王国の外交上の文書は漢文)と英語ともに二通作成、交換しました。

内容は以下のとおりです。

(第一条)自由貿易

(第二条)アメリカ船舶に対する薪水の提供

(第三条)アメリカ船からの漂流民の救助

(第四条)アメリカに領事裁判権を認める

(第五条)アメリカ人墓地を設置及びその保護

(第六条)琉球国の水先案内に関する規定

(第七条)アメリカ船舶への薪水の提供に関する費用等(17)

日米和親条約にはこの時点でまだ通商は含まれていませんでしたので、琉球は日本に先立ち通商の面で開国したことになります。

続く

(仲村覚)


【参考書籍】

( 9)ペリー来航歴史を動かした男たち 小学館 山本博文 P23~36

(10)最後の琉球王国 開分社 比嘉朝進著 P67、68

(11)沖縄の歴史 NHKブックス 宮城栄昌 P143、144

(12)本音で語る沖縄史 新潮社 仲村清司

(13)沖縄の歴史 NHKブックス 宮城栄昌 P144

(14)ペリー来航歴史を動かした男たち 小学館 山本博文 P163

(15)日米交流150年委員会 日米和親条約
http://www.ajstokyo.org/150/first/index.htm#5

(16)ペリー来航歴史を動かした男たち 小学館 山本博文 P164

(17)ウキペディア「琉米修好条約」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%B1%B3%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E6%9D%A1%E7%B4%84

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