JSN■【動画紹介:拡散依頼】「国旗の重み:沖縄の東京オリンピック」最終話(1/2)

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仕事が多忙のため、間があいてしまいました。
前回に引き続き、「国旗の重み:沖縄の東京オリンピック」最終話(1/2)を紹介させていただきます。
今回は、国旗を掲揚することにより、日本人の心が一つになれる。それを痛感させる動画です。国旗を掲揚することなく、日本人が日本人であることの誇りと喜びを示す方法は、この世には存在しません。

1964年の沖縄、県民一体となって祖国日本との一体感を喜んだ瞬間がありました。尖閣危機の今こそ、祖国復帰の原点に帰って、素晴らしい日本を子孫に残すために沖縄・日本を守りぬきたいとおもいます。
以下、是非、感動の動画をご覧ください。

動画の視聴が難しい方のために、動画中の文字を起こしました。

前回の動画に、マイクロ波回線が実際にどのように経由されたのか知りたいというコメントをいただいておりました。
探してみると、それっぽいものがみつかったので紹介します。鹿児島からの先のルートだけですが・・・

<本土・沖縄間 OHマイクロ記念の碑>
「此処、多野岳山頂に設けられ、本土・沖縄間に耳目となり、心の架け橋として歴史的に重要な時代に即応すべき使命を果たしたOHマイクロ回線、いまその時代の幕を閉ざす惟えば、昭和三十九年九月、新時代の寵児として本回線は開設された。時、恰も東京オリンピックに当りそのテレビ中継沖縄百万県民は、地理的、時間的条件を超え、迫力ある臨場感に感嘆し、本土との一体感に感動した。爾来二十年、昭和五十九年三月に至るまで、OH回線が沖縄の政治、経済、文化の進展に果たした役割は大きい。ことに沖縄県民の悲願とも云うべき祖国復帰への貢献は特筆に価する。
我々は、茲にOH回線が単なる通信方式と云うより重要な歴史の担い手であったことを、高揚するものである。

昭和六十一年十二月 賛同者一同

記念碑によると、この回線は、与えられた使命を完遂し、昭和59年に新しい通信方式に役目を譲ったそうです。
前回のやり残しもできたことですし、次の話へ進みます。

「沖縄の東京オリンピック」最終話(1/2)

さて、これで沖縄の人々の二つの望みは叶いました。
でも、もし出来ることなら聖火を持って走る沖縄の青少年たちを沿道でみんなで日の丸を振りながら応援したい…

しかし、それは最も難しい願いでした。
前述した通り米軍は、沖縄での日の丸掲揚を異常なほどに規制していました。
当時の在沖米軍は、日の丸を日本の国旗というよりも、琉球列島米国民政府(USCAR)の治世の転覆を目論む過激派のシンボルマークのように見ていたのです。

これに反発して沖縄では少し以前から「日の丸を揚げよう」運動が始まっていました。
その中心となって活動していたのは「沖縄教職員会」です。
どこかで聞いたことがあるな…と思われるかもしれませんが、これは、皆さんご存知の沖縄教職員組合(沖教組)の前身となった組織です。
嘘のような本当の話です。

ただし、前身とはいえ教職員会は、校長や教頭も含まれており、労働組合ではありませんでした。
この活動の成果だったのかどうかはわかりませんが、1961年の池田・ケネディ会談において法定の祝祭日に限り公共建物にも日の丸掲揚がゆるされることになりました。

さて、おなじみの当時の高等弁務官、ポール・キャラウェイは、これに強く反発して次のようなコメントを残しています。

「ケネディ政権の日米協調政策は、沖縄におけるアメリカの軍事的利益を損なう。」

時は冷戦の真っ只中。彼には彼なりの正義があったのでしょう…
と、ちょっとだけフォローを入れておきます。

この「日の丸を掲げよう」運動がピークを迎えたのは、もちろん、日本でのオリンピック開催で盛り上がったこの時期でした。
さらに、新聞社である琉球新報が「聖火を日の丸で迎えよう運動」を提唱すると、商店街や自治会がこれに同調。
集落や学校、婦人会や青年会へと次々に運動の輪は広がり、「聖火を国旗で!」の機運が沖縄全土を覆いつくしました。

ここで、少し整理してみまよう。

この時点で国旗の掲揚が許されていたのは、
1.個人の家屋や政治的な意味を持たない私的な会合
2.法定の祝祭日
残念ながら聖火リレー当日の沿道はこれに当てはまりません。
やはり、過ぎた願いだったのでしょうか…

とりあえず、話を勧めます。

聖火は8月21日にオリンピック発祥の地ギリシャのオリンピアで採火され、22日に日本へ向けてアテネを出発しました。
アジア初のオリンピックであることを誇示するかのように、アジアの国々を喝采の中聖火は駆け抜けていきます。
リレー走者全員の胸には、「TOKYO1964」のロゴと組み合わさった日の丸がまぶしく輝いていました。

通過国は11カ国。海外でのリレー走者は870名。
かつて無いほどの盛り上がりを見せていました。

しかし、香港でちょっとしたアクシデントが発生しました。
台風の為、聖火が一日足止めを食らったのです。
このため、本来なら9月6日に沖縄入りするはずだった聖火の到着が9月7日になってしまいます。

日程調整に頭を悩ませた東京オリンピック組織委員会は、沖縄での日程を短縮したいという意向を沖縄側に伝えます。

しかし、沖縄側はこれを拒否します。
沖縄のリレー走者3473名の青少年には、多くの戦没遺児が含まれていました。
日の丸を護るために戦場にちった彼らの父親は将来の日本にどんな未来を夢見たでしょう?

世界中の喝采を受けながら、平和の祭典の使者として晴れがましさいっぱいに走る息子の姿は、何よりもその地でなくなった父親達への供養になるはずでした。
リレー走者3473名一人足りとも減らすわけにはいかないという思いは絶対に譲れませんでした。

それに対して日本側が見せた誠意は、沖縄での日程は変更せず、聖火を途中で「分火」して先に鹿児島へ送ることで、本土の日程も変更せず、沖縄に残った聖火を福岡経由熊本で「合火」するという調整によって示されました。

9月7日午前11時59分

聖火を乗せた「シティ・オブ・トウキョウ」号が台湾から那覇空港に到着しました。
栄えある国内第一走者に選ばれたのは、当時22歳琉球大学4年生の宮城勇氏でした。
彼の父親も彼が2歳の時クェゼリン島の戦で戦死していました。

そういえば、日の丸掲揚の話を途中で置き去りにしていましたね…

この第一走者の宮城氏は後に産経新聞の取材に対してこう答えていました。
「道の両側がすごい日の丸で、走りにくかったが感激しました。」

米国民政府はこの日の丸を黙認しました。
いえ、黙認せざるを得なかったのです。

「聖火を日の丸で迎え要運動」は、年齢、性別、職業を超えて沖縄全土を覆い尽くして盛り上がっていました。
高等弁務官の強権をもってしても、この勢いを抑える手立ては無かったのです。

ワトソン高等弁務官は後に、プレスにこう言っています。
「祝賀行事であるため黙認した」
とにかく、沖縄でこれほど公然と日の丸の旗が振られたのは、戦後初めての事でした。

ちょっと沿道の写真を観てみましょう。

うはぁ…確かに走りにくそうです。
というか建物の屋上まで人がびっしりです。

「聖火を日の丸で」運動を提唱した琉球新報社前には五輪旗と並んで巨大な日の丸が掲げられました。

沿道で住民が握り締めていた日の丸の多くは、この19年間、住民たちが自宅の箪笥の抽斗で大切に保管してきたものでした。

いつか、この旗を振れる日が来たときに、虫食いの穴があいていたりしたらシャレになりません。それはそれは、大切に保管していたそうです。

そして、ずっと夢見てきたその「いつか」は今でした。
午後12時40分に那覇空港を出発した宮城勇青年が運ぶ聖火は、午後1時に歓迎式典会場である奥武山(おうのやま)競技場に姿を現しました。

聖火台の下でファンファーレが奏でられました。
しかし、不思議なことにそのファンファーレは、会場にいた誰の記憶にも残りませんでした。
平日であったにもかかわらず、競技場につめかけた4万人の大観衆の拍手と歓声は大地をも揺るがすものでした。
ファンファーレの音は、完全にかき消されてしまっていたのです。

聖火台に点火されると、高らかに君が代が演奏される中を大日章旗が悠揚と掲揚台のポールを上り始めました。

米軍占領下にあった当時の人々は、何を思いながらこの光景をみていたのでしょうか…?

当時をよく知る人によれば、その時会場の人々は、手にした日の丸の小旗をぎゅっと握りしめて、涙をこらえていたそうです。

神の誕生か、この世の終末か… とにかく尋常な騒ぎではありませんでした。
この日から5日間、沖縄は熱狂の渦に包まれます。

もちろん、この熱狂に陶酔できない人たちもいました。

沖縄の詩人、中屋幸吉はこの時のことを、こう書いています。
「沿道をうめつくし、
旗亡き者は旗をふり、
袖なきものは胴をふり、
ふってふって
ふりまくり、あやうく
自分の精神まで
ふるいおとしかねない
透明で 単純な顔の群れ、群れ!」

「もっと、深い内容をもった別の、
新たな運動が一日も早く、
生まれんことを!」

裏を返せば、少し醒めた人から見れば、皆、気が狂ってしまったのではないかと思うほど沖縄の人々は熱狂し、祖国との一体感に前身で酔いしれていたのです。

(次回に続く)